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 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月12日(水)01時54分42秒
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  > No.9121[元記事へ]

 そういえばこれ、ミリタリールックですね! GSファンだったのかな。まあ年代的には(^^;
 それにしてもいまどきダサい。セルフイメージではジャガーズのメンバーになった気分で歩いているのかもね(^^;
 あ、これがあべっちの軍隊好きの原点なのか。結局このレベルの理解発想なんでしょうな・・

 

 
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月12日(水)00時45分2秒
返信・引用 編集済
   明日で4日連続(土日除く)。ストレスマックスぐったりで読書する気にもなりません。かといって、こんな精神状態のときに、ツイッターなんか見るもんじゃないですね。体調までおかしくなってきます。頚から肩にかけてキーッとなってきました。

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 おまけ。動画は元ツイートで。
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「天津飯の謎」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月11日(火)00時32分51秒
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  > No.9119[元記事へ]

 著者は一々のレシピを丹念に確認していくのですが、これは多分に著者の趣味ですね(>おい)。私は作るほうにはさほど興味がないのでその要約は割愛させていただきます。
 結局、「明治の終わりから大正にかけて、既に蟹と卵を使う料理は、家庭料理として一般的な料理となっていたと推測される」のですが、しかしそれらはどうみても「オムレツ」の変種なんですね(ケチャップやソースをかけたりする)。
 そこで著者は、この時代の蟹と卵を使う中華料理は、実は西洋料理の影響下に日本で生まれたのではないかと考えているようです。「西洋料理の支那化」
 よくいわれるように、日本のカレーはインド料理の日本化です。同じことがここでも起こったのではないでしょうか。支那料理を日本風にアレンジするに際して西洋料理が利用されたのではないか。これは本書に(ここまでのところでは)明示的ではなく、私の想像であることをお断りするのですが(でも、著者もたぶん内心そう考えているように、私には読めるのですけどね)、もしそれが正しいとしますと、当時の本場の中国料理に、西洋のオムレツ的な料理があったのかなかったのか、それを確認しなければなりません。そこまで深入りする気はないので、今度著者に会ったとき訊ねてみようと思います(^^;
 さて、大正14年に至りますと、ようやく「現在の「芙蓉蟹(フーヨーハイ)」として知られるレシピと、あんの有無以外は大変よく似ている」調理法が現れます。料理名も「芙蓉蟹」です。昭和2年発行の本にも紹介されており、「この頃にはよく知られた料理になっていたと思われる」
 さらにその10年後、昭和12年の本で紹介されている「芙蓉蟹粉」という料理は、卵焼きの上から「あん」のかかったもので、これは現在のそれに最も近いものになっていたようです。
「天津飯はどの料理の紹介本にものっていなかったが」「その具にあたる「芙蓉蟹」は多くの本で紹介されており、この料理は多くの人に広く知られた存在となっていたようだ」
 以下更に考証は続くのですが、省略。ここでは、天津飯の具に当たる料理が大正末期には存在していたことのみ確認して、次に進みます。

 

「天津飯の謎」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月10日(月)18時56分43秒
返信・引用 編集済
   初期の中国料理店は、現在の梅田の新北京のような、大人数が円卓を囲み、宴会場として利用する体の店だったようで、1882年(明治15)開店の日本橋の偕楽園がその嚆矢だった。以降、続々と類似店が生まれたのですが、日清戦争勃発(1894年)で多くの中国人が帰国してしまう。
 その結果、在留中国人向けではない、日本人むけの中国料理店が増加します。これらは宴会目的ではない、小規模な一般客相手の店です。たぶん現在日本各地津々浦々にある「中国料理」店をイメージすればいいのではないでしょうか。こうして中国料理が国民に広く知られるようになります。
 さらに日清戦争が終結し、日本は台湾を獲得すると共に、天津や漢口、杭州、上海※などに日本人租界を認めさせたのでしたが(上海租界は日清戦争以前、南京条約で獲得)、空前の中国料理(支那料理)ブームが起こり、家庭で作られる料理となっていく。
 そういう次第で、この時代は中国料理レシピ本が多く出版された。著者はそれらも調査していて、当時の中国料理レシピ本を見る限りでは、天津飯に当てはまる料理は紹介されていなかったとします。
「やはり天津飯は、戦前には存在せず、戦後に生まれたものかもしれない」
 それでもなお、後の天津飯につながるものはないかと、「蟹」や「蝦」や「卵」を使った料理をピックアップします。
 そのレシピが具体的に紹介されていますので、料理に興味ある方は、掲載のレシピにもとづいて、戦前日本における家庭むき中国料理を作って見られるのも一興かと思います(^^;
※追記。そういえば、日本人租界があった天津、漢口、杭州、上海って、広義に見ればいわゆる中華料理の大きな流派、北京料理・四川料理・広東料理・上海料理の原産地ですよね(^^;


 

「天津飯の謎」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 9日(日)23時19分48秒
返信・引用
  > No.9116[元記事へ]

 いよいよ天津飯そのものに話は向かいます。
 もっとも著者は常に「そもそも」から解き明かしていきますので、まずは「そもそも中国料理はいつから日本で食べられはじめたか」が調べられる。
 当然江戸時代ということになります。鎖国日本は唯一長崎出島でオランダと通商していたわけですが、実はもう一つ窓口があり、それが中国貿易だった。同じ長崎に「唐人屋敷」が建てられ規模はオランダ人の出島より大きかった(年間5千人が利用した)。唐人屋敷ができる以前は船宿と呼ばれる民家に散宿していたので、日本人とも交流があり、そのときに中国料理が、まあ初めて伝えられたとされているようです(とはいえそれ以前に宣教師が「南蛮料理」を伝えています)。
 しかし本格的に入ってきたのは開国後。各地にできた「居留地」にやってくる外国人は、実質中国(香港、広東、上海)からの貿易商人なので、それに付随して中国人が船乗りやコックとして(同時に漢字筆談できるので通訳として)やってき、居留地に隣接する土地に住みつく。最初は中国人向けの料理店だったのが、居留地が廃止(1899)されてからは一般日本人相手の店となる。「中華街」のはじまりですね。(強引に約めた要約です。きちんと知りたい人は本書で確認下さい)

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 9日(日)20時37分27秒
返信・引用 編集済
   《NASAの宇宙望遠鏡が、超巨大ブラックホールからブラックホールコロナが発射され、その後、莫大なX線エネルギーパルスが噴出したのを観測した。こんな現象が観測されたのは観測史上初めてのこと》
  元記事

 もしかしてホワイトホール?(^^;


 

「天津飯の謎」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 9日(日)17時38分34秒
返信・引用 編集済
  > No.9115[元記事へ]

 第二章は「天津飯は誰が作ったのか」。
 まずウィキペディア記載の「発祥」の二説が、「記述の論理的検証」によって退けられます(まずウィキペディアの記述をお読み下さい)
「来々軒説」について、この記述中のどこにも、この料理に「なぜ天津という名前が付くのか」「この部分の説明がまったくない」ことを指摘する。たしかにこれでは説明になっていませんね。著者は親切にも「天津の根拠は前述の、米の名前から名づけられたということなのかもしれない」と好意的に推測しますが、たとえそうだとしても、天津から米が輸入されたことがないという著者の調査の結果から、この説は否定されます。
「大正軒説」についても、「天津の食習慣である「蓋飯」」という記述が疑われる。なぜなら江南ならぬ華北(河北)で「米食(飯食)」が習慣であった事実がないからです。かれらの主食は「米ではなくトウモロコシや小麦」なんですからねえ。
 その派生として、華北内蒙古からの引揚者が、船待ちの天津で食べた料理説があり(たしか梅棹忠夫も天津から引揚げたと記憶しています。北満外蒙古からの引揚者はナホトカに集約されましたが。華北方面は天津がそういう港だったんでしょうね)、しかし著者は、困窮した引揚者にそんなものを食う金銭的余裕はなかったはずといいます。たしかに、「黒パン俘虜記」でも主人公はすべてを港で奪われ、着の身着のままでようやく乗船するのですし、配給される食事は(ロシアですから)黒パン。天津でも米作りはそもそも日本人農民が従事していたはずで、彼らも引揚げに大童で農耕などしているはずがない。配給されるのはアワとかヒエとかムギの携帯食で、というのは想像ですが、少なくとも米の白ご飯にかに玉をのせたあんかけ料理なんて夢のまた夢だったのではないでしょうか。てことでこの説もX。


 

「天津飯の謎」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 8日(土)22時33分19秒
返信・引用 編集済
  > No.9105[元記事へ]

 という次第で、『天津飯の謎』に着手しました。
 冒頭です。
 

 ちょっとびっくりしました。この店、私もよく利用していたのです。著者と一緒に行った記憶はありませんが、私も行けば必ず天津飯を注文していたと思います。
 というか、この店ではじめて天津飯なる中華料理を知ったというべきでしょう。そのことについては、以前、当掲示板に書き込んだ記憶があり、検索したのですが発見できず。掲示板の欠点は検索性の悪さなんですよね。書き込みにおいて管理人と訪問者の差別がないところが気に入っていて、それでブログに移行せず使いつづけているのですが。
 話が端からそれてしまいました。この店の天津飯がうまかったというのは、実は先日のクラブOB会でも出まして、してみますとこの中華店、よほど天津飯がおいしい店だったのかもしれませんね。
 今はもう建物ごとありません。ゼロ年代にはまだ店はありましたが、営業していなかったかも。いずれにしろ、もはやその味を検証できないのです。残念です(^^;
 さて本書ですが、天津産の小站米が輸入されていたかどうかを調査しています。この部分、本格的でして、事実上戦前戦後の日本の米輸入史といってよいほど。
 結論だけいえば、ジャポニカ米である小站米は当時の天津近辺の在留日本人だけで消費されてしまって、日本本土に輸出する余分はなかったようです。逆に言えば、それだけ日本人が軍人民間人合わせて大量に北京天津辺に進出していたということなんでしょうね。
 上田早夕里『破滅の王』で通州事件が描かれていましたが、現地の人にすれば、もともと有数の人口地帯に、大量の日本人の到来は、邪魔で邪魔で仕方なかったんだろうな、とこの事実からでも想像されます(満蒙開拓団も、実は満蒙の荒蕪地を自分らで開拓したのではなく、既に農耕地となっている土地の住民をそっちに追い出し、居座ったというのが事実で、おそらく通州辺りでもそういうことをしていたのだろうと思いますね)。
 今でこそ米余りの日本ですが、実は戦後、昭和29・30年をピークに、昭和34年まで米は輸入されていたとのこと。多くは東南アジアからの輸入で、つまりインディカ米だったわけです。平成5年の米の緊急輸入でタイ米が嫌われて売れなかったことはいまだに記憶に新しいですが、わずか数十年で過去を忘れてしまう日本人の驕りは、ほんと、どうしようもないですね。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 8日(土)19時50分35秒
返信・引用
 
   ――何にも知らない お人好しのぼくだって
   知らず知らずのうちに 人の心を傷つけている――



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『ランドスケープと夏の定理』読了

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 8日(土)07時20分1秒
返信・引用 編集済
  > No.9107[元記事へ]

「楽園の速度」(200枚)を読みました。
 前作の事件から2年後、ネルスは指導教官だったベアトリスと結婚している。ベアトリスの妊娠が判明した翌日、2年ぶりに姉から連絡があり、すぐにL2へ来るようにと。それも(情報=演算対としてではなく)実体で。前作の事件に関連して何か不都合が起こったのかと、ネルスはおっとり刀で駆けつけます。
 その前に、前作では、ネルスが証明した第二知性定理(理論発展の加速化)によって、「理論の籠」(この宇宙における可能性の全理論構造。但し線文字Aのように未解読)が得られたのでした。前作のクーデタは、この「理論の籠」から、姉が個別的に抽出解読(翻訳)した「エネルギー非保存空間」発生装置によって鎮圧されたのでした。かかる未来技術を目の当たりにした列強各国は、当然「理論の籠」が宝の山であることに気づきます。
 かくして、かかる未来技術をわがものとすべく、某国の諜報機関が、姉弟を拉致しようと動き出すのですが、それをいち早く察知した姉が、ネルスを安全なL2に呼び戻した。というのが今回の招聘の真相でした。ですから実体で来るようにいわれたのにはちゃんと理由があったわけです。
 ところが、ネルスのL2到着直後に、L2(の宇宙研究施設)が未知の兵器によって攻撃される。球形と円筒形のモジュールを格子状に連結したL2はバラバラになり、ボール宇宙を係留していた球形モジュールが、姉を乗せたまま宇宙空間に流れ出し行方不明となってしまう。
 辛うじて救出されたネルスと姉の共同研究者青花は、救命艇で月に搬送される。二人は、未知の攻撃兵器も未来技術ではないかと推測します。「理論の籠」は、それ自体はサイズの小さなファイルなので(TXT文書みたいなものを想像すればよいのかな)、どこかの国によって密かにコピーされ、その一部が解読されたのかも、と。
 なにはともあれ、姉とボール宇宙を乗せたモジュールを発見救出するのが先決と、ふたりは、L2に向かう便を得るのが月よりも容易であろう地球に向かって出発するのでしたが……

 要約はこのへんにしておきますが、いや~面白い(^^)。第一部は、これぞハードSFという感じの作風でした。それが第二部、第三部へと進むにつれて、次第にハードSFっぽい衣装が剥ぎ取られ、むしろワイドスクリーンバロック的(あるいはヴォークト的)な作風に変わっていくのですね。これもぜんぜん悪くない。本篇はハードSFタッチのヴォークトです!(^^;
 WSBってのは何でもあり小説ですから、ストーリー展開もデフォルトで強引(豪腕?)です。多少の矛盾や破綻は意に介しません。第三部である本篇にも、当然ながらそういうところがあります。
 たとえば第一部では、ボール宇宙とこの宇宙との物理定数を異にすることによる異質性が強調され、内部に入った主人公(の電子存在)がその存在を維持するために、姉たちが消尽されてしまう描写があったりしました。本篇ではそのような異質性はほとんど強調されず、(それなりの工夫がなされたのだとの記述はありますが)姉たちは(冒頭に「(ボール宇宙内の)姉たちがどのように混在し、あるいはどのように遍在し偏在しているのかは、僕にはうかがい知ることも難しいのだ」と書かれているように)内部に溶け込んでその性質が変わっていてしかるべきはずだと思うのに、全然この世界の存在形態を維持できているように見えます。この辺はアニメ的なものを感じました。
 また妹の存在形態も、姉のコピーのそれと同一である筈ですよね。と思うのですが、なぜか顕現の仕方が異なっているように感じます。274pで、「お姉ちゃんたちはますます増えている」のに、妹は単一個体のままみたいにみえます。恣意的な感じがするんですが、論理的な説明が可能な設定であるのなら、その説明がほしかった。しかし絵的にはこれでいいんですけどね(その意味でもアニメ的かも)
 そういえば、理論の籠は、「へびつかい座ホットライン」を新しい皮袋で包み込んだものといえそうですし、ラストでの「翻訳」行為の超絶裏返し、これには意表をつかれました。天城一の超純密室的転換なんですよね、見事見事(^^)。とはいえこれもある意味「脳波」ですよね(^^;
 揶揄しているのではありません。むしろそういうところ一切合財含めて、私には面白かった。
 そういう目であらためて振り返ると、意外にも本書がSFのメインストリーム、王道を行く作風であることに気づかされるのですね。
 これはまた有望な新人が登場したものです。この先どんな作品世界を見せてくれるのか、目が離せませんね。
 あと、興味深かったのは、ハードSF寄りの作風なのに、作中人物がウェットなこと。これは前回のべた小説世界のオプティミズムと通底する著者の特質ではないでしょうか。同様のテーマを扱うイーガンとは対極的ですよね。面白いですねえ。

 ということで、高島雄哉『ランドスケープと夏の定理』(東京創元社、18)、読了。

 

産声

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 7日(金)00時10分31秒
返信・引用 編集済
  > No.9111[元記事へ]

 下の記事の不思議な地震、オウムアムアの地球接近と関係があるのではないでしょうか。オウムアムアは、2017年10月14日、地球から2400万kmのところを通過しました(その5日後にハワイの天体望遠鏡パンスターズによって発見された)。そのとき、地球に向かって、何かが射出されたのです。
 その何か(とりあえず物体Xとしましょう)は、きわめて注意深く射出されたに違いありません。なぜならオウムアムアは時速約9万5000kmという猛列な速度で遠ざかりつつあり(現在は11万キロ以上に加速。この理由も明白で、射出の結果、オウムアムアの質量が減少したからでしょう)、一方地球も時速10万8000キロで公転しているわけですから、おそらくオウムアムアは、自身の進行方向とは逆方向すなわち後方、且つ地球の公転していく方向に向けて、精妙に、地球に対して相対速度ゼロとなるように物体Xを打ち出したはずです(ちょっと強めだったかも)。
 その結果物体Xは、地球を後方から追いかけるように、地球の引力に少しずつ引き寄せられていくこと2か月半、たぶん去年の年末から今年の正月あたりに地球に(マヨット島沖に)到着したと考えられます。そしてそのまま海底にめりこんで行った……。
 それこそが今回の不思議な地震の原因です。「11月11日の朝、世界時(UT)で9:30になる直前に、謎の地震が世界を駆け巡った」
 なぜ年末年始あたりに到着したと断言できるのか、なぜそれが今頃になって活動を開始したのかその時差は何か、ですか?
 だって11月11日の十月十日前は、1月1日じゃないですか……。

※わ、計算の仕方間違えてますね。m(__)m メンドくさいのでこのままにしておきます。どうせ人間じゃないですし(>おい)(汗)


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 6日(木)23時45分20秒
返信・引用
 

             元記事



 

Re:  

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 6日(木)01時36分19秒
返信・引用 編集済
   ↓読みました。まあ荷風は怒りますわね(^^; 一読して思ったのは、これ講談やな、でした。文体もですが、構成がそういう感じなんですよね。
 本篇が発表されたのは1951年で、解説によりますと、「大衆芸能研究者としての色彩を強めた時代(1946~58頃)である」となっていて、なるほど。
 上記解説にも、「青春自棄の日の私は数多の新作落語を草して現金馬、柳橋、志ん生、今輔、右女助その他に作り与へ、自らも亦高座に立つて剪燈凭机の一舌耕となり果つるの日さへあつた」という文章が引用されていますね。
 米朝さんの師匠でもあったのですね。

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 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 5日(水)23時11分28秒
返信・引用
  元ツイート


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 5日(水)22時35分59秒
返信・引用 編集済
  元ツイート

 

『ランドスケープと夏の定理』より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 5日(水)03時26分18秒
返信・引用 編集済
  > No.9096[元記事へ]

「ベアトリスの傷つかない戦場」(190枚)を読んだ。
 前作の事件から一年後、ネルスは一念発起して就職していた会社を休職し、北極圏大学の院に戻っています。(この時代、北極圏は自治体になっていて、温暖化で開いた北極海航路を管理しているようです)
 ボール宇宙体験の結果、自身の研究テーマである「知性定理」を究める気持ちになったからなんですが、それは同時にボール宇宙内に残された妹を回収するということに繋がるからでもあった。
 いまや、「量子ゼノン転送技術」はかなり安定したものに改良されています。ネルスは度々、「情報=演算対」となって(というか生成させて)、L2に跳び、姉を訪ねて助言をもらったりできるようになっているのです。
 そればかりではありません。L2にはボール宇宙が残されています。姉たちはそれを計算機として運用している(宇宙最速の計算機です)のですが、ネルスも自分の研究にそれを利用させてもらっていたのでした。
 「知性定理」は、それこそ個人間のコミュニケーションから始まって、ランドスケープの全ての宇宙に適用可能であるものなんですが、卒論として提出した知性定理は、まだこの宇宙にしか適用できない、いわば「特殊」知性定理であった。妹救出にはこれでは足りません。「一般」知性定理を確立してはじめて、ボール宇宙内と交通できる(その意味では、姉がやっているのはボール宇宙の理解ではなく、それは不可知のままで単に計算装置として運用しているだけ)。
 それは難航を極めるのですが、指導教官ベアトリスの助言がきっかけとなり、ボール宇宙計算機の助けを借りることで、まずはこの宇宙の全理論が、一億年未来にはどのように変容しているか、そのラフスケッチまでこぎつける。一億年後(もちろんシュミレーションです)の知性は一般知性理論を確立していると考えられるからです。
 といっても外形がわかってきただけで、内容が理解できたわけではありません。
 しかし面白いことを発見する。それぞれの理論において、その時間発展を見ていきますと、全てが順調に発展しているわけではないことが見えてきました。「遅延」がみとめられるのです。まあ当然ですね。
 そこでネルスは、この「遅延構造」を「鏡像反転」させれば「加速構造」になるのではないかと気づく。この計算は、大学の設備では何十年かかっても終わりません。ということで、ボール計算機です。さっそくL2に跳び、姉に計算を依頼して、大学に戻ると(身体に戻ると)、北極圏の独立を主張する若手将校によるクーデターが勃発していた。
 L2とのレーザー通信の巨大アンテナが破壊されるのですが、ネルスは、ブリコラージュ的に「常温超伝導コイル」で<空間固定装置>を作り、それに赤外線発信機を乗せた分散型アンテナを密かに製作し、再びL2に跳ぶと、姉は部分的な解読に成功していた。つまり一億年後の未来には、(順調に、時間発展を妨げる突発時なく発展が続けば)完成する(筈の)ひとつの理論を解読したのです。それは「運動エネルギー非保存空間」作成理論だった!
 そのレシピを持って戻ってすぐ、ミサイルが大学施設に命中し、被害が出る。
 ネルスは自分の研究がある意味浮世離れしたものであることを自覚していたので、「ここでぼくに何ができるだろう」「知性にいったい何ができるだろうか」と暗然とします。いよいよ危険が迫り、ネルスが作業を中断して避難しようとしたとき、姉から、そのレシピで完成させるのを優先するようにとの通信が。不審に思いながらも何とか完成させ、作動させたとき……

 いやー面白かった。これって、「常温超伝導コイル」による<空間固定装置>にしろ「運動エネルギー非保存空間」にしろ「鏡像反転」しろ、もはやスペースオペラの世界ではないですか。いや、ヴォークト的というべきか!(^^)
 そういう話を、いかにもハードSFの衣装を纏わせて語る著者は、「SF」を本当によく分かっているのでしょうねえ。そのハッタリの利かせ方の絶妙さには感嘆するばかり。そのおおらかな楽観主義※(「時間があればきっと」)と相俟って好感をもちました(^^) ※(ある意味クラーク的かも)


 

ナベサダ85歳

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 3日(月)22時28分7秒
返信・引用 編集済
 
2018年 11月22日 放送


 

Re: 「天津飯の謎」

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 3日(月)19時12分53秒
返信・引用 編集済
   雫石さん

>天津飯があんねんから、天津ラーメンもあってもええやろと
 雫石さんのと同じかどうかわかりませんが、天津麺もうまいですよね。
 ところで冒頭を下に掲げますが、著者の疑問はカツ丼みたく[材料+ごはん]という命名が一般的な中で、[米産地+ごはん]はいかにも不自然というのが出発点だったみたいですね。
 そこで、雫石さんの書き込みの、天津麺(天津ラーメン)です。天津飯の「天津」が米産地から来ているのなら、天津麺は[米産地+麺]ということになり、まったく意味が通らなくなってしまいますよね(^^;
 これは通説が誤りであることの強力な傍証になるのではないでしょうか。もしかしたら著者は気がついてないかもしれません。今度教えてあげようと思います!

 



 あ、アマゾンに反映されていました→〔amazon〕


 

Re: 「天津飯の謎」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2018年12月 3日(月)09時59分32秒
返信・引用
  > No.9102[元記事へ]

この本、面白そうですね。
天津飯、確かに日本生まれだそうですね。
天津飯があんねんから、天津ラーメンもあってもええやろと
思って作りました。
https://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/50f562aaa6244c91fcba8d477da1319a
おいしかったですよ。

https://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 


「天津飯の謎」

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 2日(日)16時36分43秒
返信・引用 編集済
   そうそう。昨日は同期生から著書をいただいたのでした。
 

 自費出版本で(おお文春新書みたい!)、彼がのたまうに、天津飯という料理が本場中国にはないことは知っていると思う(>知りませんでした)(汗)。その名前の由来についてはネットでもあまた説が出ているが、全部間違いである。本書はそれを質し、ある仮説を提出したもの、とのこと(^^;
 面白そう(^^)。『ランドスケープと夏の定理』を読み終わったら、さっそく着手しようと思います!



 

蘭郁二郎

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 2日(日)15時52分59秒
返信・引用 編集済
   そういえば、金曜土曜と二日連ちゃんで電車に乗りましたが、車中読書は電書でした(いま読んでいる『ランドスケープと夏の定理』も四六版ソフトカバーなんですよね。観察していましたが、車中文庫を読んでいる人はいたけれど四六版の本を読んでいる人は皆無でしたよ。いまどき四六版なんて、意味論的には読者にこの本を買うなと言ってるのと同じなことが、なぜ出版社はわかりませんかねえ。しかもなお、四六版でもハードカバーはそれなりの風格がありますが、ソフトカバーは面積との兼ね合いで中途半端すぎてむしろブサイクと思わないですか? それだったらノベルズ版のほうがまだしも見映えします)。

 読んでいたのは蘭郁二郎。「火星の魔術師」「蝕眠譜」「植物人間」を読みました。
 この作者はたぶん初読みですが、予想以上に面白かったです。異形コレクションに収録されていそうな作風で、異コレ自体は玉石混交でしたが、上記三篇は異コレの玉のなかでも相当上位の玉と比べても遜色ないと思いました。
 文章も戦前の作品(1940年ごろ)とは思えないほど現代的で、驚かされました。ただ戦前の奇想作家の例に漏れず、科学的な考証性が緩いのは仕方がないのかもしれません。キャンベルのアスタウンディング誌が1937年からですから。それもおそらく時代の制約で読んでなかったんじゃないでしょうか。年齢的にはハインラインより年下なんですけどねえ。

 

同期会忘年会

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 2日(日)14時10分33秒
返信・引用 編集済
   昨日は、小学校の同期忘年会でした。毎年ごく少人数で(町内会レベルで)忘年会を行っていたのですが、今年からそれを拡大し、全体同期会での忘年会になりました(於、福島駅界隈)。2クラス80名強の同期生から、20名が参加しました。
 小学校では一番仲がよくて、しかし中学卒業以来会ってなかった友人が参加していて、やあやあとなったのですが、聞けば、2003年の同期会で会ってるといわれて愕然。その記憶が(同期会に参加したという記憶からして)まったくありません。でも、こうこうこんな話をしたがな、と言われた内容が、当時の私の状況に間違いなく、とすれば参加していたのでしょう。完全な記憶の欠落です。2003年といえばまだ40代です。突発性アルツハイマーだったんでしょうか。嗚呼。
 二次会はカラオケ。それでも去りがたい面々で、タクシー2台に分乗してミナミヘ。東心斎橋の、ある同級生の行き付けの店なんですが、なんと入り口がロックされており、あけてもらって入店するシステム。
 こういう店は2回めです。一回目はまだ社会人になりたてのとき、先輩の女子社員に連れて行かれたのですが、女性がひとりでやっていて、且つ女性客主体の店なので、防犯のため、と説明された記憶があります。要は一見さんお断りの店ということなんでしょう。
 昨日の店もそういう店だったのかもしれません。先客はふたり組みだけで、聞けば同い年。予備校が私の行っていた予備校とごく近所、ということで、なんとなく意気投合し、カラオケを合唱してしまいました。似たような選曲なので、心置きなく、いつもは封印している岡林や高田渡を歌うも、ママさん(40代?)は初めて聴いたと。うーむ。こんな高齢者向けのところでも、いまやフォークソングを知っている客は絶滅したしまったのでしょうか。哀号。
 どんだけふんだくられるかひやひやしていたら、意外にも、二次会のカラオケより安かった。まあ行きつけの同級生の顔での価格だったんでしょうね。
 いつもより大分遅く、1時前帰館。

 

Re: 小室圭報道における精神科医(>_<)の一考察

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 2日(日)13時34分14秒
返信・引用 編集済
  > No.9098[元記事へ]

 トマトさん
 寒くなってきているのですが、たまに妙に暖かい日があったりして、昨日もコートを着て外出したら汗をかいてしまいました。ところが帰宅が深夜になったんですが、コートで丁度よかった。着るものが難しい時期ではありますね。
 さて、片田珠美は何冊か読んでいますが、ごくまっとうなことを、扇情的なタイトルで(そしてあけすけな語り口で)発表する人ですよね。そういう意味では、片田氏のタイトルをもじれば「ふつうとは思われたくない人たち」の一人なのは間違いないですね。
 そういう傾向は精神科医に限らず科学者一般に認められそうです。片田氏は新聞に連載コラムを持っていて、そこで自らの指向性(嗜好性)を存分に発揮していますね(でも実は担当者からもっとやれもとやれーという暗黙の尻叩きをされてそうしているのではないかと言う気も(^^;)
 あと、動物行動学系の学者に多そうな。竹内久美子は論外ですが(笑)、正高信男(ケータイを持ったサル)、小原秀雄(ペット化する現代人)なんかそんな感じですね。アッ、三人とも京大だ。京大人文研系の人たちも鬼面人を驚かすを表現を好みますね。小松左京の影響か?(^^;
 精神科医ということでは、木村敏という人は「ヘンな人」の対極に位置しています。誠実です。『異常の構造』あたりが読みやすいです。現在の、薬投与で事たれりとする精神医学界では異端になってしまいますが、中井久夫、宮本忠雄、もいいです。あ、加賀乙彦はそのような反精神医学の考え方を小説で表現しています。この人たちが退けられてしまったのは、精神病院の経済効率の結果なんですね。結局ヘンな精神科医は資本主義の生成物なんですねえ(>おい)(^^;

 追記。生物学者の池田清彦はテレビの露出が多いですが、この人もけっこうヘンな人ですよね(注。もちろんいい意味でです)。
            ↓






 

小室圭報道における精神科医(>_<)の一考察

 投稿者:トマト  投稿日:2018年12月 2日(日)07時55分1秒
返信・引用 編集済
  お久しぶりです(^-^;
寒くなったりしましたねー!

このところ、あきしのみやのマコサマと婚約された小室Kさんへの報道が過熱している。これについて精神科医(ヘンな人が多い)の片田珠美氏(顔は見れたものではない)が次のように考察する。

https://www.cyzowoman.com/2018/11/post_210925_1.html

「加熱する小室報道の真相は嫉妬である」と・・・。
さらに精神科医(ヘンな人が多い)の片田珠実氏はつぎのように指摘する。
精神科医(ヘンな人が多い)の方田珠美氏(ファションセンスは花の応援団のみすずちゃん)によると、小室Kさんは高偏差値でブランド大学である国際基督教大学という学歴がある。これだけで南河内大学や会津若松白虎大学といった低偏差値クズ学校しか出て居ないようなものは大いに嫉妬する。
 私は神保町でナマ香山リカを見たことかあるが、精神科医(ヘンな人が多い)の香山リカ(一応芸能人オーラでファションセンスは一応芸能人)は勝間勝代と書店で大喧嘩をしていたことは知られている。

 普通の人だったら当然精神科医(ヘンな人が多い)とほぼ無縁で接点はない・・・ですが、立場上精神科医(ヘンな人が多い)と接点があるんですが、本当に精神科医(ヘンな人が多い)ってヘンな人が多いですね・・・。一目見ただけでまずオーラがヘンな人しているんです・・・。精神科医(ヘンな人が多い)の香山リカは橋元徹とバトルしたときありましたが、香山リカはヘンな人でありヒステリー丸出しのバカ女であるとしか言いようがないとおもいました。偉大なる精神科医(ヘンな人が多い)というと、もうとっくにポアしていますが、小田晋というオッサンがいました。この小田晋というオッサンもみるからに「とっつぁん坊や」的な変なオッサンでした・・・。




↓リンク先 精神科医、片田珠実氏の尊顔(閲覧注意!)

https://www.bookbang.jp/review/article/552382

 

谷九でジャズ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月 1日(土)11時44分3秒
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   ひとり酒って、ドラマによくあるシーンですよね。ぴんから兄弟にもありますが、あれは女うたです。私、ひとりでしんねり呑むという、あれが苦手なんです。手持ちぶたさで間が持たないんですよね。ドラマでは主人公が、よくバーのカウンターで待ち合わせしていますが、あんな真似をしたらガブガブ呑みすぎてとんでもないことになります。
 先週、MI-6からの帰り、エレベーターのなかでちょっと喋った人が、なんと来週のライブに出演する人で、ぜひお越しくださいと誘われてしまいました。これは行かずばなるまいということで、昨日は夕方5時過ぎに出発したのですが、これでは7時前にMI-6に到着します。ライブは9時頃開始です。どう考えても始まる時分にはベロベロになっていそうです。本でも読んでいればいいのか。ときどき、カウンターでひとり文庫本を読んでいる人を見ますが、あれが自分にもできるだろうか。無理ですね(^^;
 という次第で、MI-6の前に、谷9のジャズ喫茶サブに行くことにしました。あそこも、金土日は7時からライブ演奏をやっているはずです。
 天王寺の旭屋で少し時間をつぶしてから、サブにジャスト7時到着。客は私を含めて三人。演奏者らしき人がカウンターでだべっていてなかなか始まらない。15分くらいしてようやく始まりました。テナーが最初あんまり音がでてない。途中からよくなりましたけど。
 演目も決まってないみたいで、その都度決めながらのようでした。ジャズはまあこんなのがふつうなのかも。とはいえ、半分練習感覚な感じはしました。まあそれでも十分楽しめました。
 開始が遅かったせいでか、ワンセット終了が8時半頃。すぐに地下鉄に飛び乗って(店が地下鉄出口の踊り場に相当する通路に立地していますので文字通り)、東梅田着が9時前。MI-6はライブ直前には超満員で立ち見客がでるほどになるので、ちょっと遅れたかなと、急ぎましたが、入店したらまだ始まっておらず、立ち見客もしれてました。しかし、案の定、満席でした。さすがに立ち見は年齢的に無理なので(そういえば数年ぶりに現在ツアー中の浜田麻里コンサートでは、ファンの高齢化により今回はいす席が設けられたそうです(^^;)断念。後ろ髪をひかれつつ退散しました。
 それでも帰宅は11時過ぎでした。一体なにをやっていたんでしょうね(^^;
 お酒はジャズ喫茶でのストレート(チェイサーあり)二杯だけだったのに、妙に疲れて即寝てしまいました。
 まあ、今日が小学校の同窓会なので、体力温存の意味もありました。今日は本格的に呑む(呑まされる)予定なので、当板への書き込みはおそらく無理と思われます。


 

『ランドスケープと夏の定理』より

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月30日(金)02時00分8秒
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  「ランドスケープと夏の定理」は170枚の中篇。いや面白い。時は21世紀後半、主人公のネルス(=ニルス?スウェーデン人?)は、北極圏の自宅から、宇宙物理学者の姉の研究室があるラグランジュ点2(L2)に向かっていた。
 3年前、ネルスは、当時東京の大学にいた姉の研究に協力して、記憶(=意識?)のコピー(量子レベルでの観測行為の継続(=光子の照射)で記憶活動を停止し、その上でコピーしたもの。情報=演算対)を電脳空間に転送し、電脳内での経験の記憶を保持したまま、再び、肉体内の本体に回収する実験台となったのですが、回収に失敗し(回収前に停止がやぶれる)、電脳内にコピー(すでに本体とは別の記憶をもっている)が残ってしまう。
 それを姉が、(アイデンティティの安定ため?)「女性」に加工し、ネルスにとって「双子の妹」として電脳内に存在させたのでした。
 この事件をきっかけに姉とは音信不通になったのですが、ネルスと「妹」は気が合い常に会話していた(当然?うーむ私だったら喧嘩ばかりしてそうな)。
 L2に到着したネルスは、姉から、また実験台になってほしいと、いや、なることを強要される。
 今回は電脳内ではなく、姉が発見したドメインボール内の「別宇宙」に転送→回収するというのです。
 ドメインボールとは理論的に姉が予想したもので、宇宙開闢で一点よりインフレーションした宇宙が、冷える段階でムラ(欠損)を生じ、それが点状だとモノポール、線状だと宇宙ひも、面状だとドメインウォールとなるのですが、姉は、ドメインウォールが自らの張力で丸まった(その際近傍の宇宙をも丸め込んでしまう)状態があるはずだとして、それに「ドメインボール」と名づけ、実際に小惑星帯で発見してしまうのでした。
 なぜ小惑星帯に目星をつけたのかといいますと、ドメインボールは、その性質上、表面近傍では強い引力を示すけれども、少し離れると負の重力(斥力?)が周囲の重力を打ち消してしまう。強力な引力が宇宙塵を集めるのですが、ごく表層だけで、その外側はすぐに無重力になるので、結果、ドメインボールは宇宙塵が集積された小惑星状の外殻を持つと予想されたからです。つまりドメインボール小惑星は、その体積から予想されるよりきわめて重力が小さい天体なので、そうとわかって探せばかなり容易に発見できたのですね。
 さて、ドメインボールの内部は別宇宙です。それは光の速度などの物理定数が全て、この宇宙とは異なった宇宙なので、もし人間(に限らず物理的な存在)が内部に進入したとしても、その瞬間に存在が無化されてしまう(「こういう宇宙」とは解釈が異なる?)。
 ここで雑談。
 ドメインボールは別宇宙ですから、内部からは(たとえば『半分世界』に出てきた哲学談義、世界はボールの内にあるのか外にあるのか、のように)、当宇宙がボール状に見えているのかと想像するのですが、実際は(もちろん小説上の)境界面は凹面状なのです(当宇宙からは凸面)。これはどうなんでしょう。ただこのボール宇宙には視界(距離など)は存在しないとありますから、単純に、当宇宙の感覚に囚われた主人公(の情報=演算対)の錯覚(?)ということなのかも知れないのですが。
 お話もどして、
 姉の思考は更に拡張していく。当宇宙もこのボール宇宙も、その上階梯の宇宙からみれば、(その宇宙内に存在する意味で)その宇宙の異なる領域でしかない、とします。多世界解釈の並行宇宙も単なるヴァリエーションに過ぎないと考える/その内に含む宇宙構造を「ランドスケープ」というそうです。
 そういう見地からはボール宇宙は当宇宙に隣接する別宇宙にすぎないことになり、原理的に交通可能というのが姉の考えのようです。ボール宇宙への進入は、その検証の意味もあるようです(多分)
 もう一つ目的があって、それは主人公と妹を、そのコピーを共に転送することで合体させ、合体した情報=演算対を主人公本体に回収する(上書きする)ことで原状復帰を図ろうとする企て。
 物語のこの先は、きちんと要約する自信がないのでやめておきます(^^;
 いずれにせよ、このあたりではっきりと、姉と主人公の、コピーに対する認識の違いが明らかになってくる。コピーは単なるコピー(つまり従属的)なのか、別の個性(等価的)なのか、という認識の相違。
 あと、疑問点を少々。
「ネルスに見破れなかったものが私にわかるはずがないじゃない。わたしはテアお姉ちゃんに会ってまだ三年なんだから」(63p)
 と妹が言うのですが、妹はネルスであったときの記憶も保持しているのだから、これはどうなんでしょう?
 姉のコピー認識を従属的としましたが、見方を変えればそうではないかもしれません。主人公が妹に「でも、そうしないと、いつまでもきみは演算空間のなかにいることになる」いうのですが、この言葉は肉体があってこその「魂」※だという旧来の認識のような気がします。それに対して姉は、電脳的存在を肉体に従属させない立場のようにも見えます。姉にすれば、ひとたび電脳空間に転写された意識は、その時点で別人格なのかも。コピー人格に対する乱暴な態度は、それが「自己ではない」と言う意識を現しているのかもしれないと思ったのでした。

※魂の定義がよく分かりません。意識や記憶の言い換えなのか、また別の意味が担われているのか。

 とりあえずメモ代わりに――

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月29日(木)01時02分7秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月28日(水)23時09分46秒
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「ランドスケープと夏の定理」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月28日(水)22時08分53秒
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   唐突ですがふと思い出したので。高校で同じクラブに所属していた同級生がいまして、阪神大震災の前年ですからもう20数年前になりますか、初めて同学年全体の同窓会が行われ、当の同級生は出席していなかったのですが、その同窓会で当時の最新の名簿を配布されたのを、ぱらぱら見ていて、ええーっ!? とのけぞったのでした。くだんの同級生の氏名があきらかに韓国朝鮮のそれで記載され、その後ろに括弧で括られて当時我々が呼んでいた氏名が(ちょうど女子の旧姓のように)付け足されていたのでした。(ついでにいえば、名簿にはもうひとり、女子ですが、やはり韓国名になっているのがありました)
 出席していた別のクラブ員に「知ってたか?」と聞きますと、「全然知らんかった」。
 そのとき感じたのは、なんか悔しいなあ、という気分でした。水臭いなあと。裏切られた、というと大袈裟すぎます。3年間(厳密には3年生夏休みまでの2年半)、盆と正月と土曜日以外は毎日、夏休みの合宿では同じ釜の飯を食っていた仲間だと思っていたのに、そういう話をまったくしてもらえなかったことに……在日だと知らされたからって、付き合う態度が変わるはずがないのに……と。
 でも、もしかしたら雑談の中で、無意識に在日を貶めたり揶揄したりしていたかも、と、後になって思い直したのですね。いちいちは憶えていませんが、そういう話をしていても不思議ではない。あり得る話なのですね。そんなとき、くだんの男も、話の輪の中にいた可能性はきわめて高いのです。そのときかれは、どんな態度をとっていたのでしょうか。我々に合わせて、そうだそうだと言っていたのかも。その時の気持ちはどんなだったのか。
 だとしますと、こっちがどんなに同じ仲間だと思っていても、そんなグループには、卒業してしまってからも付き合っていく気にはならんでしょうね。事実、音信不通なんですよね。

 それはさておき、『うなぎばか』の「山うなぎ」で、南米の奥地に生息する、うなぎと遜色ない美味な動物とは、下ではネタばれになるので書くのを控えましたが、川いるかなのでした。
 川いるか? と私はちょっと首をかしげたのですが、小説の設定なのでオッケーです。(本篇の主題として、うなぎがいるかだったとしても君らは蒲焼にして食うか、というアンチテーゼがあるので)
 でも実際のところはどうなのか。堀さんの日記に静岡駅構内の料理屋さんが紹介されているのですが、それで思い出したのですが、私、静岡に一年だけ住んでいまして、いるか料理を出す店を知っているのです。その店が、実は堀さんご紹介のお店の隣なんですね。何たる奇遇(でもなんでもないですね)(^^;
 調べたら確かにコンコースをはさんで反対側に(一緒に?)移動していました。
 とか言いながら、結局静岡時代に食すことはなかったので、味は知らないのです。ここにいるか料理の感想がありました。やはりうなぎより鯨に近いみたいですなあ(^^;

『ランドスケープと夏の定理』の表題作を読みました。おおこれは面白い! しかし難しい(^^; 疑問点を列挙しながら読んだのですが、ざっと再読していたら、ちゃんと説明があった(汗)。目が滑っているのですね。ということで、きちんと再読することに。


 

Re:   

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月27日(火)20時33分30秒
返信・引用 編集済
   Takemanさん

「Silver Shoes」いいですね(^^)。大阪のFM局でも最近よくかかっています。
私が知ったのも実は最近で、前曲の「LAZY LOSER」でした。やはりFMで聴いて、おっ!となり、わざわざFM局のその日のオンエア曲がわかるサイトにまで行って、曲名アーチスト名を確認しました(よほどでないとしないのですが)。
 そういえば「Silver Shoes」も、おっ!となったのでした。曲が終わってからの曲目紹介でReiとわかり、自分の耳に自信を持ちました(^^;。
 将来有望ですね。レコード会社は売り出し方を間違えてほしくないです。

『ランドスケープと夏の定理』に着手。おおハードSFだ!!

 

Re:     

 投稿者:Takeman  投稿日:2018年11月27日(火)14時59分14秒
返信・引用
  > No.9090[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

私も最近ラジオでこの人の「Silver Shoes」という曲を聞いて、ちょっといいなと思っていました。
私が知らなかっただけですが、だいぶ前から活動していたようですね。


>
>      33分30秒あたりからどうぞ。
>
>
>

http://losemind.hamazo.tv/

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月26日(月)22時42分32秒
返信・引用
 
     33分30秒あたりからどうぞ。


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月26日(月)20時52分24秒
返信・引用 編集済
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             元記事

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「うなぎばか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月26日(月)04時26分38秒
返信・引用 編集済
   倉田タカシ『うなぎばか』(早川書房、18)読了。

 おもしろかった~!(^^)
 70年代、角川文庫からは面白SF短篇集が陸続と刊行され、面白小説に飢えていた私たちの渇をいやしてくれたものでした。本書はちょっとそんな感じがしました。かるくするする読めて、(メッセージ性もあるのですが)とにかく面白い。可笑しい!
 100枚程度の短篇が5篇収録されていて、すべて、うなぎが絶滅して10年後くらいの世界が舞台になっています。小説世界は共通でも、登場人物に繋がりはありません。独立した短篇なんですが、ひとつ共通点があるとすれば、作中の主要人物が「うなぎばか」ばかりな点でしょうか(^^;

 冒頭の「うなぎばか」は、うなぎが絶滅してしまった結果、主人公の父親は経営していたウナギ料理店をたたまざるを得なくなります。店には代々伝えられてきた秘伝の「たれ」があった。父親はたれを廃棄しようと考えていたのですが、それを知った「ウナギ文化保存会」(会長は母方の祖父)が、彼らはいつの日かウナギを人工的に復活させ、蒲焼が再び食える日が来ることを信じていて、その日のために、秘伝のたれを引き渡せと要求する。ウナギ絶滅の片棒を担いでいたという自覚がある父親はその要求を拒否し、主人公やその同級生を巻き込んだてんやわんやのドタバタが始まります……

「うなぎロボ、海をゆく」は、AIが搭載された新人のロボット密漁調査艇が主人公。これは直接にはウナギと関係はない話ですが、ウナギ型の形状をしています。ウナギの絶滅をきっかけに、他の魚類も国家間の条約で乱獲が厳しく制限された結果、逆に密猟者が増えるという悪循環が起こっている世界で、新人のロボット調査艇が、経験を積めば積むほど、世界はそんなに単純な仕組みで出来上がっているのではないことを学習していきます。ロボットの擬人描写が、石原藤夫の『海洋未来物語』を髣髴とさせられ、微笑ましくてグッドでした(^^;

「山うなぎ」も面白い。食品会社に、南米の某国から、うなぎにそっくりな味の食材の売込みが。試食するとまさにうなぎ。久しぶりの美味に試食者は随喜の涙。原料はいったい何なのか? 食品開発部の元バレーボール部員の女4人組が(なぜバレーボール部員なのかは省略(^^;)、はるばる南米の奥地へ調査に赴いてみると・・!(汗)

「源内にお願い」は、ヨコジュンもビックリの超傑作(^^) いやこれは日本短篇SFオールタイムベスト級でしょう。うなぎばかの高校生二人組が、ひょんなことで拾ったタイムマシンロボットに乗って江戸時代に向かう。理由は、平賀源内に、有名な土用の丑の日にうなぎの蒲焼を食べようと言う広告コピーを書くのをやめさせるため(>おい)。しかし行った世界はすでに縄文時代にうなぎが絶滅してしまった並行世界の一つだった。その世界の源内も同行して、正しい世界の江戸時代に向かううなぎばか二人組。正しい世界の源内に広告を書かないことを了承させ、その結果を確認するため、源内二人も連れて現代に戻ってきたのでしたが……。いや~途中から本格SFになってしまいました(笑)

「神様がくれたうなぎ」、うなぎが絶滅してしまったことが判明したその日、主人公の部屋に神様が出現する。君は籤に当たったのでひとつ願い事をかなえてやろうと言います。好きな女の子との仲を取り持ってもらえないかとにやけていると、神様が、うなぎの絶滅を救うというのはどうかと提案してくる。実は神様のミスでうなぎは絶滅してしまったらしい。願いごとをかなえられるなら絶滅を無しにすることも出来るのでは? それは禁じられているのだと。ただし君がうなぎを救けたいといってくれればそれは可能になると。いやうなぎより女の子が。押し問答が始まるのでした(^^;

 

「うなぎばか」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月25日(日)18時02分7秒
返信・引用 編集済
   祝・貴景勝初優勝! いやーよかったよかった貴親方が引退していて(>おい)。残っていたら増上慢がさらに上乗せになっていたでしょうな(>たぶん今頃、引退するの早過ぎたと臍をかんでいるとみた)(^^;
 しかし 西宮 芦屋出身力士の優勝は、おそらく大相撲史上初めてではないでしょうか(笑)

 ということで、倉田タカシ『うなぎばか』に着手。

 

「オブジェクタム」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月25日(日)00時40分52秒
返信・引用 編集済
   高山羽根子『オブジェクタム』(朝日新聞出版、18)読了。

 3篇収録の作品集。
「オブジェクタム」は150枚の中篇。話者(視点人物)である男(>「私は」とか「彼は」といった主語が省かれています。これは見事。以下、主人公とします)が、子供の頃に暮らしていた町に、レンタカーでやってくる(>「戻ってくる」ではない)ところから話が始まります。
 主人公は、借りっぱなしになっていたあるものを返すためにやってきたのです。
 話は一転、過去へ。町内のめぼしい場所に、月に一回、壁新聞が貼られるようになる。いったい誰の仕業なのか、当初は町の人々も興味深々で詮索していたが、そのうち詮索されなくなる。内容が実用的で町民に好評なものだったので、大いに利用されたからです。
 小学生の主人公は、ひょんなことから祖父がその「壁新聞」の製作者であることを知る。祖父は川沿いのススキ野原の中に秘密の基地をつくり、そこに新聞の手動印刷機を置いて壁新聞を発行していたのです。その日から主人公は、祖父の手伝いを始める。祖父の手足となって、町中から記事の種になる情報を拾ってくるのがその仕事。
 ところがある日、祖父が倒れる。死期を知った祖父は、「最終回」を発行する。しかしその壁新聞には「最終回」の文字しかなかったのです。あとは白紙。ただ、新聞の紙がちょっと特殊で、穴が穿たれたパンチカードを漉き込んだものだった。祖父の友人で、以前は印刷工場を営んでいた人がそれに気づき、もしかしたら解読できるかも※、と、主人公を伴ってまだ機材の残っている廃工場へ向かうのでしたが……

 このメインストーリーが、懐かしい気分を横溢させていて、とてもよいです。服部さんのチャチャヤング・ショートショート・マガジンに連載した連作長篇「もうひとつの夏もうひとつの夢」がおのずと想起されてくる、そんな話です。

 しかし、この主筋に数本の副筋が絡むのですが、絡んでいるだけで、あまり主筋をブーストしていかないのですね。父親にDVされている姉妹はいったいどうなったのか、とか。これなんか、これだけで主筋になりそうな話なんですが、中途半端なままでフラストレーションが残りました。※※
 祖父が最後に作り上げた虹の遊園地も、いったい何だったのか。主人公は、祖父が自分のために作ってくれたと考えますが、唐突です。新聞の最終回と何か関連があると考えたい。でもそういえるだけの手がかりは、本文中には(私は)読み取れませんでした。そういう意味で、前半の速度が後半で緩んでしまった憾みを拭えません。

※祖父は贋金作りの告白を「ホレリスコード」で打ち込んでいたのだと私は想像しますが、状況証拠だけで、これと言った決め手が文中に残されていません。さらに憶測を逞しくすれば、祖父は若い頃「活動家」だったのではないでしょうか(^^;
※※同様に、主人公はかなり久しぶりに町に来た風なのですが、なぜ返しに来るのがそんなに遅くなったのかも、合理的には不審。主人公はどうして町から出ていったのか。実家は残っているのかいないのか。そんな情報もないので、この「帰郷」が不自然に感じました。ただストーリーの都合上としかみえなくなるのが残念。書き込み不足では? 追記。書き込み不足というより、この話が要求する枚数に達していないということですね。出しっぱなしの副筋を全て回収する奥行きと幅が必要なんですが、中篇では無理でしたね。残念残念。

「太陽の側の島」(60枚)は、早々に、夫のいる場所が重なり合った異次元的な場所であるのだろうと想像がつきました(^^;。本篇も説明を拒絶する文体で、「異形コレクション」的な短篇。野暮をいえば、手紙のやり取りが都合よすぎて不自然(最初、戦時中の話で検閲があるはずなのにと思いました。そういえば前篇でも、コンビニで間違って千円札を渡す場面も、あざといと言えばあざとい。大事なものなのに、財布に入れていたんでしょうか。不自然)。

「L.H.O.O.Q」(20枚)は、昔の純文雑誌に載っていそうなアブストラクトな作風の掌篇。暗い不安感の持続がよかった。

 

チャチャヤング・ショートショート・マガジン合評会

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月24日(土)10時17分21秒
返信・引用 編集済
   昨日はチャチャヤング・ショートショート・マガジン6号合評会で梅田へ。内容非公開につき、詳細は省略(^^;。
 二次会はいつもの居酒屋で、今回は三次会も。例のMIー6へ行きました(^^;。
 三次会ですから、遅めの時間になってしまって、50分ほど喋ったらライブ演奏が始まり会話不能に。ワンステージだけ見て、退散したのですが(*それでも帰宅したら0時30分で、いつもと変わらなかった)、ひょんなことで、来週も行かなければならなくなってしまいました。次の日が、小学校の同窓会なんですけどねえ。まあ約束したので致し方ありません。というか、楽しみ~(^^)

 追記。これは自作なので少し。
「ボッチちゃん」ですが、タイトル失敗でした。このタイトルで電話の相手がボッコちゃんのような応答型AIであることが読む前にばれてしまい、私が狙った効果がうまく伝わらなかったようです。
 タイトルがこれでなかったら、最初の数行では、主人公はふつうに奥さんと喋っていると、読者は思ったはずなんです。
 それが読み進めていくうちに、応答が少しずつずれてきます。
「家のこと、よろしく頼む」「よろしく頼まれるわ」
「悪いな」「悪いわ」
「そんなこと言うなよ」「言わないわ」
 とか。
 このへんで、ははあ、相手は生身の人間ではなく、AIだったのかと読者はここで気づき、主人公以外の人間はすでにどこにもいないのではないか、という小説の世界観に気づいて少し戦慄する――という狙いだったのですけどねえ。ミスった……

 高山羽根子『オブジェクタム』に着手しました。

 

「半分世界」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月22日(木)23時43分23秒
返信・引用 編集済
  > No.9080[元記事へ]

「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」(220枚)を読みました。
 これは大きな物語。徹底してもの「語り」です。
 あくまでだだっ広いだけの、乾燥した大地に、二本の未舗装の道路が十字に交差している。そこには何の標識もありませんが、バス停なのです。
 第一話では、到着したバスから「おれ」が降りてくる。ここでバスを乗り換えるのです。1時間に数本のバスが到着するのですが、聞けばこのバス停には999とおりの行き先の違うバスがやってくるとのこと。それだけ路線があるということは、目的のバスがやってくる頻度はかなり低いということになる。
 事実、タイミングよくすぐに目的のバスが来て去っていく人もいるのはいるのですが、そんな人は少数。大抵は何日も何週間も待ち続けている待ち人で、バス停のある十字路付近は、滞留する人々で混雑している。食料も飲料水も、皆そんなに持ち合わせているわけではありません。忽ち飲み尽くし食べ尽くしてしまう。
 そんな人々の互助グループが十字路の4つの象限に自然発生しており、「おれ」もそのひとつに加わる。滞在が長引くにつれ、「先輩」に、この(極端に物資の不足する)「世界」でのエチケットやルール、それからこの「世界」の歴史(といっても実際は数か月かも)を教わっていきます。
 もともと待ち人の互助組織ですから、成員の入れ替わりははげしい。いつしか(といってもせいぜい数週間でしょう)「おれ」は、そこで最古参になっています。今日も今日とて、新入りに(先輩の口ぶりと同様)、この「世界」の始まりから今日までの「歴史」を、いかにも見て来たように「物語」り、「再話」しつづけるのでした……

 第二話の話者は「あたし」。この世界では、生きていくために芸を売って日銭を稼ぐ人もいます。「あたし」もそのひとり。ダンサーです。たまたま知り合ったピエロと手品師とで組んでバスキング(パフォーマンスをし観客から帽子等に投げ銭してもらう)しているのですが、全然流行りません。
 その頃には、自然発生的な互助グループだったのが、もっと組織化されたものに発展しています。自集団を《バス停ポリフォニア》と命名した有力なグループは、かなり民主的な組織原理を持っていましたが、その他にも原理を異にする集団が成長していました。専制的なもの、商業的なもの、やくざと変わらないもの、等々……
 この辺は、『グレイベアド』のポストホロコースト世界に雨後の筍のように自発した始原的な諸組織を彷彿とさせられます。
 さて、不人気な「あたし」たちのパフォーマンス集団は、自分の食い扶持も稼げず、やがて自然解消してしまう。失意に沈んでいた「あたし」は、ひょんなことでギターの名手と組むことが出来、それなりの人気を博すが、ギタリストの待つバスが到着してしまい、突然コンビは解消される。
 しかし少し自信を回復していた「あたし」は、単独で、当時その界隈でもっとも羽振りがよかった行商人グループ《バス停コンソーシアム》の首魁である「商社マン」に自分の芸を見せるも、それは芸の未熟さを指摘されるだけでしかなかった。

 なお、第一話で100人くらいだった滞留者の人数は、この頃には(といっても3か月ほどです)1000名に達していたことが、《バス停ポリフォニア》の研究班が確認します。これはどういうことを意味しているのか。研究班の仮説は、999行路あるといわれているバスが、実際は999全部は来ていないのではないか。乗り換えのためにバスを降りる人は従来どおりだが、そのうちの一定の人々の待つバスが来なくなってしまったのではないか、結果、流入者>流出者となり、人口が急増したのではないか。

 それはさておき、生きていく自信を失った「あたし」は、十字路からかなりはずれた荒れ地にすぐれた「シャーマン」が居ると聞き、藁にもすがる思いで、シャーマンを訪ねる。そこで1週間の苦行に耐え抜いた「あたし」は、ふるまわれた薬草酒で幻視するのですが、これは「あたし」を救うものではなかったようです。
 ふたたび十字路に戻っていた「あたし」に、《バス停ポリフォニア》のオルグ女性(オルグ記事の記者でもある)が、「フィエスタ・ポリフォニカ」に出演しないかとの誘いが。この辺は"民主的"な「民青」の「手口」がモデルでしょうか(>おい)m(__)m

 第四話は間奏曲。
 第五話では、独裁者「チーコ」(トランペットの名手でもある)が登場。また、人口増加と、それに連動する自然破壊の進行で更に環境の悪化した十字路付近での生存手段として、深い「穴」(地下空洞?)を掘ってそこに身を横たえ、植物のようにひっそりと極力エネルギーを使わない一団も。その一団の「会話」の中で語られる「チーコ」は、奇妙に矛盾した存在として描かれます。
 そしてここに突然、「わたし」が現れる。現れると言っても、この「穴の中の会話の現在」世界に現れるのではないようです。どうやらこの「わたし」は、はるか遠い昔(といっても具体的にいつ頃の話かは不明)、まだ牧歌的だった時代、第三話の《バス停ポリフォニア》のオルグ女性(オルグ記事の記者でもある)が書いた提灯記事に登場する、《バス停ポリフォニア》仲間と結婚した新婦であることが記述から確認できるのです(行き先を変更し、新郎の待つバスでハネムーンに行くとなっていましたが、結局新郎の待つバスは到着しなかったのでしょうか?)
 これはどういうことか。どうやら、穴のグループの会話は、「わたし」の「口」が発声していたようです。女性は「地下」(穴)に横たわっているように思われます。もしかしたら、かつてこの穴で交わされた言葉の数々が、「わたし」の「声」を借りて再現されたのかも……。としても、なぜそれが「新婦」だった女性でなければならないのか、このパートだけではよく分かりませんね。先走りますが、私は第五章の「祖母」こそが、この「新婦」だったのではないかと考えます。

 いずれにせよ、第一話から第四話までの語りは、すべて「再話」だったのだと思います(※その過程で「事実」や「記憶」は次第にずれたり歪められ、たとえばギターの名手がトランペットの名手に改変されてしまったこともあったようです)。ではそれは、誰が語ったのでしょうか。しかしその前に――

 私の理解によれば、第五話ではじめて、本篇の「実在」世界が描写されています。言い換えれば本篇の「現在」こそ第五話なんです。
 第五話の時代では、すでに「チーコ」も歴史や神話世界の登場人物です。とはいっても「語り手」の祖母は、バスに乗って到着した世代なんですね(第一話の「おれ」同様、あるいは地下の寄り代女性同様、第一世代の声を踏襲しているだけなのかもしれませんが)。
 本話の主人公は、第四話のその後の物語を祖母から語り聞かされるのですが、微妙に食い違っていたりする。祖母は、いわゆる「語り部」で、彼女の中の「物語」が、彼女の「声」を使って自己主張している。ですから主語というか自称が変化し視点が変化するのですね。そうだとすれば、祖母が語ったのは、第四話以降の話だけではなかったのではないか。
 結局、第一話から第四話までの全て、話者は祖母だったのではないか。祖母が主人公に語り聞かせた内容だったのではないでしょうか。あるいは祖母に依り付いた物語が自らを語った……? それが本篇の構成でしょう(第五話のみ、孫の主人公が話者)。

 その祖母も歳をとり、満足に動けなくなったとき(=主人公が一人前の大人になったとき)、彼女は、主人公に、子供たちをつれてここから出て行き、バス停を見つけ、バスに乗って本当の世界へ「入って」行きなさいと命じます。主人公は子供らをつれ出発するのですが、そしてたまにバスらしきものが通り過ぎていくのですが、その息が詰まるような臭い匂いを吐き出す乗り物がとても「思い描いていた」そのものだとは思えず、乗ろうとはしない。更に歩き続けるも、やがてそれなりの土地に定住してしまう。子供たちは大きくなり結婚もし、子供が生まれます。
 主人公は夜毎に子供たちを集めて、十字路のバス停での物語を、まるで自分の経験のように物語ります。そして「おまえたちもそのうち自分の名前と同じバスを求めて、ここから出て行かなきゃいけないよ。その先には、驚くような世界が待っているから」と諭すのでした……。
 でも、主人公が生まれた土地も、実は祖母たちのグループが十字路世界から逃げ出し、新たに見つけて定着した場所だったのですねえ……

 いや面白かった。私は読中ずっと、かんべむさし「背なで泣いてる」が頭の後ろの方にありました。いやもちろん両者は別々の作品であり、そんなことを言われても著者も困惑するだけでしょう。どっちがどっちと比較など出来ない、共に傑作なのですが、そこに「人生」が凝縮して詰め込まれているSF小説であるという意味で、私は似た何かを感じてしまったというわけです。
 近年、SF小説に優れた新人が輩出していますが、この著者も素晴らしい才能の持ち主ですね。次はきっと長篇だと思いますが、刮目して待ちたいです(^^)

 ということで、石川宗生『半分世界』(東京創元社、18)読了。







 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月21日(水)19時55分19秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月21日(水)02時30分16秒
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久しぶりに散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月20日(火)23時42分1秒
返信・引用 編集済
   健康のため、毎日散歩をしなければ、と常々思っています。思っているばかりでなかなか実行しません。今年もあと1か月半を切りましたが、今年いつもの防潮堤の遊歩道で散歩したのは、思い返して4、5回もなかったような。
 過日のクラブOB会での体たらくに、あきれ果てた同級生に散歩を厳命された話を当板に書きました。すっかり忘れていました。先週、その同級生がやっているお好み焼き屋を訪れようと思い立ったとき、ああそうだったと思い出し、行けば当然聞かれるだろうと、まあアリバイ作りでその前日だったかに散歩してきました(結局断念したのでアリバイ作りの意味はなかったのでしたが)。
 効果的な歩行法を伝授されていまして、それはうしろに蹴り出すように歩くのではなく、できるだけかかとを最後まで地面にべたっとくっつけておく、ちょっと見た目ギクシャクした感じ気味に歩くとよい、というものでした。
 そのことも思い出して、当日試してみたのでしたが、いや、これは効きましたねえ。
 いつもですと一往復20分のコースなんですが、30分近くかかった。もっとも久しぶりの散歩でそもそも足が弱っていたはずなので、その分で5分余計にかかったとして、あとの5分はその歩き方の結果でしょう。その歩行法ですと、かかとからお尻までの、脚の裏側が伸ばされるのですね、一往復して戻ってきたら、まるで「いざり」※10往復させられたみたいに足がよれよれになっていました。(※いざりというのは、当時クラブでやらされた基礎連のメニューで、うんこずわりの格好で歩かされるのです。現代では、うさぎ跳びと並んで意味なしむしろ有害とされている練習方法です(>おい(^^;)
 10往復というのはオーバーですが、効果がありそうなのは体感しました。往来でこういう格好で歩くのは抵抗がありますが、遊歩道だったら、たとえすれ違っても、なんか事情があるのだろうな、と思われるんじゃないでしょうか。次回も試したいと思いました(>それはいつか?)

 写真は、そのとき撮ったもの。台風21号の傷跡でしょう。木が折れまくっていました。

 

 下は対岸の神戸方面。矢印の下が六甲山でしょうか?

 

 

Re: 「半分世界」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月20日(火)02時36分57秒
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  > No.9079[元記事へ]

 承前。ちなみに60平方キロのこの町のタテヨコの長さはどのくらいか、計算してみました。
 この町は正方形のゾーン(升目)が横に5、縦に10並んでいるので、町全体は縦横比は、2:1の長方形です。

 この長方形の短辺の長さをxキロメートルとしますと、

  x*2x=60
  x*x=30
  x=√30
  x=5.4  ……短辺
  5.4*2=10.8  ……長辺

  5.4÷5=1.08  ……ゾーンの1辺

 各ゾーンは約1平方キロであることがわかります。

 と書いても、イメージしづらいですね。
 梅田付近の地図に一辺1キロの正方形を書いてみました。

 

 サッカーのコートとすれば、かなり広いですねえ。この升目の街中を、ボールを取り合いしながら走り回っているわけですね(^^;




 

「半分世界」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月19日(月)22時54分55秒
返信・引用 編集済
  > No.9077[元記事へ]

「白黒ダービー小史」(150枚)を読みました。
 本篇は、山尾悠子系の「世界」小説です。いやまあ、前2作も「世界小説」なんですが、前二作にはまだ現実リアル世界と繋がりがあったというか、これらの世界から外に向かって歩いていけば、いつか現実世界に至るであろうという、そういう「世界」でした。
 一方、本篇の小説世界は、現実世界とは無関係に存在する世界です(時間線が異なっており、悪魔はマックスウェルじゃなくてブラックウェルなんです)。その関係(無関係)はすなわち山尾悠子の小説世界と現実世界との関係と同じなんですね。そういうわけで本篇は、やはり山尾作品と同様、構築された「世界」を楽しむ(味わう)小説であるといえると思います。

 本篇の世界は、サッカー世界です。厳密にはサッカーという言葉は使われません。専らフットボールと書かれているんですが、日本ではフットボールといわれますと、ラグビーやアメフトも想起されます。しかし著者が本篇で描く競技は(日本で言う)サッカーから発展したものです。
 なぜそう断言できるのか。まあゴールキーパーがいるということで明らかなんですが、あとゴールのことを「ゴールマウス」と言っています。ラグビーやアメフトにも当然ゴール(ポスト)はありますが、ゴールマウスとは言いませんorありません(大辞林によればゴール枠のことをゴールマウスと言うのは誤用で、正しくはゴール枠内前面の範囲のことだそうです。本篇が間違っていると言う指摘ではありませんの念のため。)
 また、フィールドのことを「ピッチ」と言っています。これは最近日本でも1990年代辺りから一般化したのだそうですが、それまではフィールドと言っていた。ピッチは英国流の用語のようです。そしてサッカーはアメリカや日本での競技名ですが、英国など他の地域ではフットボールが正式名称みたいです。つまり、本篇は(著者は)英国流の名称表現にこだわりがあることがわかります。

 話がそれました。
 本篇の世界である町は、南北に長い長方形で、その町全体が「フットボールフィールド」なんです※。町は(あたかも京都のように碁盤目状で)横5x縦10の50の正方形に区画(ゾーン)されており、南西角がゾーン1で、北東角がゾーン50です。
 ですから各「ゴールポスト」は、南のゾーン3と北のゾーン48にあります。町役場と中央広場が町の中央・ゾーン23とゾーン28にあります(そこがセンターサークル。ラグビーやアメフトにはセンターサークルはありません)。試合はゾーン単位で行われ、それはボールがゾーンに転がり込んできたとき、あるいは隣のゾーンの自軍からのパスではじまり、次のゾーンへボールを送り届けたときに、そのゾーンでの試合は終了します。そのようにして、昼夜を問わずどこかのゾーンでボールの奪い合いが行われているのですが、個々の選手にすれば、(統計によりますと)生涯でボールに触れている平均回数は16回、平均キープ時間は10秒にも満たない。それ以外は日常生活を送っているわけです。何とも奇妙な(バロックな)小説世界ではありませんか!
 ※なお町の面積は、60平方キロで、これは東大阪市とほぼ同じ。また灘区と東灘区を合わせるとやはり60平方キロになります。ただし東大阪市は東西に長い長方形、灘区・東灘区はほぼ正方形なので少し違いますが、イメージする助けにはなると思います。

 本篇は、この町がサッカーの町になっていった(町民が両チームに分かれて戦う)300年の歴史を概観するという「小史」の体裁が一方にあり、もう一方にはロミオとジュリエットに擬せられた、両チームの花形選手の男女の恋物語が絡みます。

 あ、書き忘れましたが、ここでいう「ダービー」とは、もちろん競馬のことではありませんし、本篇に描写されるこの競技の名前でもありません。「サッカーなどで、同じ県、都市、地区に本拠地のあるチーム同士の試合。ダービーマッチのこと」です(はてなキーワード)。この町にはブラックスとホワイツの2つのクラブチームがあり、町の住民は世襲的にどちらかに所属しています。それは300年前からそうなのですが、町の規模や形状の変化を伴って、ルールも変更されていきます。
 具体的なそれは割愛しますが、要は300年間、白と黒は交じり合って灰色になることはなかった。これはある意味エントロピーの増大に抗する300年だったといえるのではないか。
 それが可能だった一因は、この町が孤立した一つの完結した閉鎖系世界であったからなんです。そもそも町の外には広大な田園地帯が広がっており、隣町とはほぼ没交渉な鎖国世界だったようですが、しかし、情報の発達(現在ではスマホが一般化しています)や、ある時期から外部の選手を金銭トレードで獲得することが許可されたりで(本篇の主人公も移籍選手です)、次第に緩んできていたのですね。主人公と敵軍の美女選手との悲恋も、昔だったら言語道断だったはずなのに、なぜか陰ながら応援してくれる。実は不可視な所では、すでにシロアリに食い荒らされたようになっている事実が発覚したりするうちに、なんと、13年ぶりに、ボールが北のゴールがあるゾーン48のスタジアムに入ってくる。
 ロミオである主人公は攻撃側ブラックスのセンターフォワード、ジュリエットは敵軍ホワイツの右サイドバック。
 既に数日前から、ゾーン48にボールが届くのは予想されていました。ジュリエットからの秘密の連絡手段で、白黒を止揚する灰色をめざすという謎のメッセージが。それは主人公のシュートに対して、ディフェンスを手加減するという意味に、私は取りました。
 おいおい、灰色はエントロピーの最終局面である熱的死なんだけど……
 白黒が決して交わらず融合しないことで、この世界は存在を継続することが出来たわけです。それを個人的目的で時間の流れない世界、死の世界にしていいのか。
 私の危惧などお構いなしに、ついにボールはスタジアムに入る。つり出された敵軍のディフェンスの裏に走り込んだ主人公にパスが届く。飛び出してきたゴールキーパーをかわして、主人公の地を這うシュートががっ!?

 さて、世界は死に絶えたのでしょうか? 更になお続いていったのでしょうか?
 いや面白かった~(^^;
 途中で交わされる哲学談義、世界はボールの内にあるのか外にあるのか、とか、白黒混じらす動き回る300年を、300年のシャッタースピードで写真に撮れば、そこには灰色しかない、などという、わたし的にはセンス・オブ・ワンダー(ドリンクウォーター的転換)な小ネタも随所にばら撒かれていて、楽しめました。

 

生ジャズを聴く

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月18日(日)00時39分25秒
返信・引用 編集済
   youtubeで見つけた日本のサックス女子の「インプレッションズ」が気に入り、先日、当板で紹介しました。サックスもよかったがピアノも引けをとらない演奏でした。それで検索していたら、ピアノの人が大阪を拠点に活動していることがわかりました。たまたま、今日、谷町9丁目でライブをしているとの情報。思い立ったら吉日で、行ってきました。

 谷町9丁目は地下鉄谷町線ですが、地図を見たら、谷九って上六から200メートルくらいしか離れていないのですね。上六は(昔だったら)近鉄の終点です。あっと思いました。
 先日、おおさか東線乗車を計画し果たせなかった経緯を書き込みました。そうか近鉄を使う手があった。
 例の同級生のお好み焼き屋は、おおさか東線河内永和駅が最寄り駅なのですが、近鉄布施駅も距離的には変わらないのです。
 そこで、大和路線で加美駅まで行き、新加美駅(加美駅の筋向いにある)でおおさか東線に乗り換え、河内永和でお好み焼きを食し、布施駅から近鉄に乗車、上本町駅で降り、200メートル歩いて谷町九丁目着というのはどうでしょう。よさそうじゃありませんか(^^;

 そういう次第で、高揚して出発したのですが、阪和線乗車中にだんだん気分が下がってきてしまいました。この計画ではおおさか東線の南半分しか乗れません。それもなあ……となり、天王寺駅着時点では、すでに「別の機会にしよう」となっていたのでした(汗)。
 しかし、そもそもその段取りで出発していたので、生演奏は7時からだったのですが、直行したら早く着き過ぎてしまう。小腹も空いているし、なによりお好み焼きが食べたくなっていました。

 てことで、天王寺駅を出て、アベチカ(阿倍野地下センター)へ降りていきました。アベチカって、名前はウメチカみたいですが、規模は雲泥の差で、全部でイーストモールくらいでしょうか。その北のドン突きに、あべとんというお好み焼き屋があって、予備校時代はよく利用していました。そこで豚とえびのミックスを食す。美味しくいただいたのですが、服にお好み焼きの匂いがこびりついてしまったような気がしたので、ちょっと風に当てようと、地上に出た。
 天王寺公園の南東角あたりに出たのですが、出てビックリ、風景がまったく変わっているではありませんか。
 以前ジャズ喫茶トップシンバルがあったビルは跡形もなく、「てんしば」というコジャレた商業エリアに変身していたのです。
 いやー、天王寺駅は頻繁に通りますし、乗り換えもしますが、そういえばトップシンバル閉店後は北西方面には足を向けたことがなかった。梅田も行くたびに変化していますが、天王寺もそうだったんですね。田舎に逼塞していると、どんどんリアル世界から置いてかれてしまいますなあ(‐‐;

 またマクラが長くなりました。地下鉄谷町線谷九駅6番出口の階段の途中にあるジャズ喫茶SUBが目的地。ネット情報では4番出口となっていて、ウロウロしてしまいました。大阪では有名なジャズ喫茶らしいですね。
 ウロウロしていたので7時には間に合わなかったのですが、演奏はまだ始まってなかった。私が着いてすぐに始まりました。
「インプレッションズ」は、後半フリーになっていて、今回もひょっとしたら、と期待しましたが、さすがにありえませんでした。しかし私の大好きなモンク「エピストロフィー」やパーカーのナントカも演奏されて、客席がもうちょっと盛り上がったらタガが外れたんじゃないですかねえ(>おい)。いやいや十分楽しかったです(^^)
 2セット観て、もう1セットあるらしかったですが、ちょうどグラスも空になっていたので(バーボン・ストレート・チェイサーありで4杯。後の2杯は実質ノーチェイサーでした。さすがに5杯目はやばいと思い)そこで切り上げましたが、帰宅しても意外にぜんぜん酔ってなく、やはり体調で限度は上下するみたいです。
 なかなかよかったので、たまに行こうかなと思ったことでした。

 

 


 

「半分世界」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月17日(土)00時51分20秒
返信・引用 編集済
  > No.9075[元記事へ]

「半分世界」は、発端が判然としません。「ある朝、近隣住民が通りかかってみれば既に(その家は)半分に割れて」いたのです。家が崩落したような音を聞いたものはいないとのことなので、「吉田同名」※同様の「超現実」現象なのかもしれません。が、私はそれは採用しません。人工の産物です。なぜなら、「半分に割れ」方が「不自然」だからです。
「その家は、ドールハウスさながら、道路側のおよそ前半分が綺麗さっぱり消失していた」のはそうなのですが、「正面右奥の玄関や黒塗りの鉄門は無傷のまま残され、赤い郵便受けの隣には、FUJIWARAという表札が掛っている」
 つまり前半分が綺麗に消失しているわけではない。右側の、門から玄関の部分は前半分であるにもかかわらず残っているんです。同様に、道路側の塀は下半分が残っている。ここでは「前」ではなく「上」が消失しています。
 消失部分が、超自然現象にしては「作為的」なのです。なんらかの「人間の意図」(人工)を感じずにはいられない。(瓦礫が一部片付け忘れて残されていたというのもそれを裏付ける描写です。ただし「藤原家」の人々の所業であるのかどうかは私には確証がありません)
 玄関や表札が残っているのは、家の(視られる家族の)アイデンティティだからではないでしょうか。この家が「藤原家」であり、この後この半分の家で展開されるのは、藤原家の家族のプライバシーである、ということを強調するためのように思われます。
 また前の塀の上部だけが消失するのは、塀が全部なくなってしまうと、藤原家の「境界」が曖昧になってしまうということと、あと、塀の上部をどけることで、ドールハウス化した部分を、向かいのアパートから、より観察しやすくするための「意図」だろうと思うわけです。(ドールハウス化=内部の可視化)
 さて、本篇のテーマが「視る事と視られる事」であることは容易に視透せます。となると真っ先に想起されるのはフーコー『監獄の誕生』でしょう。
 ただ『監獄の誕生』では視る者と視られる者が固定化不可逆的な関係が取り上げられていた。
 本篇も、途中まで、否、殆ど終盤近くまではそういう関係でした。[視る者>視られる者]という権力構造がストーリーをブーストしていた。
 それが、家に侵入するという「禁忌」を犯してしまったことで「倒立」させられます。一転して、視られる者は視る者に、視る者は視られる者に立場を入れ替えられる。視られる者は視る者だったんですねえ。
 しかも実は、この「倒立」こそが「正立」で、「正立」と信じられていたことこそが「倒立」だったのではないか。
 つまり、藤原家のドールハウス化は人智を超えた現象ではなく、ドールハウス化することで、(上に内部の可視化と書きましたがそれは真逆で)外部を観察することを可能化するためだったのかも。すなわちドールハウスこそフーコーの云う「監視塔」だったのではないか。
 いやいや、視る者は視られる者でもあるという相互的事態を描いたのではないかといわれるかもしれませんが、私は違うと思います。なぜなら、ドールハウスの視点は「一」ですが、外の者たちは「多」で、そこに不均衡が存在します。そして監視塔と監獄の関係も「一:多」なんですね(パノプティコン)。
 さらに、当初こそドールハウスは可視的でしたが、冬の訪れと共に不可視化していき、それに危機感を覚えた「突入」がきっかけで[視る/視られる]は逆転する。
 やはりドールハウスは、「視る者」を「視てしまう」装置だったと思うわけです。
 さて、突入した映画監督が藤原氏のPCから無断でコピーし持ち帰ったデータこそ、(そんな事態は百も予測していた、待ち構えていた)「視者」側からのメッセージであった(この事実も、倒立説を裏付けます)。事実を知った「被視者」はその結果どうしたか。各自、自分の家をドールハウス化するのでしたが、それはもはや(既に構造のダイナミズムは壊れており)後の祭りの手遅れなのでした。いやまあ、自覚は常に後至的であるという教訓だったのかもしれませんなあ(^^;

(※昨日の書き込みの後で気づいたのですが、「同名」には「同盟」が掛けられていますね)


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月16日(金)20時10分39秒
返信・引用
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「半分世界」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月16日(金)02時33分27秒
返信・引用 編集済
   石川宗生『半分世界』より、「吉田同名」(80枚)と「半分世界」(100枚)を読みました。
 前者は、小説化の構成がかんべむさし『決戦・日本シリーズ』と同じで、特定の能動的な主人公の存在しない小説です。語り手は実質的に作者です(最後に、記述者が明かされますが)。
 帰宅途中だった吉田大輔氏が、最寄り駅で降り、自宅へと歩き始めたとある地点で、突如19392人の吉田大輔氏に分裂する、というのは正確ではない。ある時点で、突如19392人の吉田氏が存在を開始したのです。オリジナルがあってそれから分裂したり増殖したりしたのではないということです。19392人が前後関係なく同時に出現し、彼らは同等にひとりであった記憶を、生まれてから特異点までの記憶を、継続保持しているのですね(とうぜんそれぞれ別人となった後は各自それぞれ独自の記憶を有すことになります)。
 その住宅地の住民数が1304名でしたから、19392人の瞬時出現がどれほど激烈であったかわかろうというものです。
 事実、道路という道路は吉田氏で川の水のように埋まってしまいます。それがいっせいに、自宅めざして走り出す。彼らも異常事態に気づいて、オリジナルの権利(吉田家の戸主)を確保しようとして(一番に帰り着こうと)走り出したわけです。
 しかし一本の道を走れる人数は限られているわけです。しかし特異発生地点と自宅を結ぶ帰り道は、簡単に言えばタテヨコあみだくじのように碁盤目を形成している。そのすべての帰宅可能経路(トポロジー的にいって152通りのルートが存在するらしい)に、最短経路からあふれた吉田氏が流れ込み、まさに支流で別れる水流のように人間水流となって、それも激流となって両岸の障害物をその水圧で破壊しつつ、最終到達地点にむかって殺到したのでした。
 もちろん自宅の庭まで達しえたのはごく少数だったわけで、大多数は自宅周辺に押し合いへし合いの状態で屯することになる。
 それはまったく迷惑な話で、結局、吉田氏は一人残らず(といっても激流に飲み込まれて死亡してしまった個体もあるのですが)、原因が究明され原状復帰するまで政府が用意した施設に収容されることになります。

 さて、ここまでの話で、私は即座に三田村信行『おとうさんがいっぱい』の表題作を思い出しました(ただ記憶が薄れており、確認しようと本を探したのですが、発見できなかったので、こちらの記述も参考にしました)※。
 三田村作品では、お父さんが三人出現するのですが、政府はひとりを正統と認め、残二名は「余分人間として」どこかへ(収容所へ?)連れ去られてしまいます。
 一方本書は、上述のとおり全吉田氏が「収容所」(内部では自由だが外出は禁止されている)に収容されます。本篇の方が平等のようですが、いずれにしろ理不尽な話です。
 本篇は、まず「不条理」小説として立ち現れます。

※ついでに言えば、A地点とB地点を結ぶ全てのルートを行くというシチュエーションは、やはり『おとうさんがいっぱい』収録の「どこにもゆけない道」が想起されます。三田村作品では、ルートが変われば到達地点(自宅)も変化してしまう、つまり分岐多元宇宙テーマみたいな話なんですが、主人公の少年のアイデンティティ(記憶)は変わらない。一方、本篇は、行き着く先が変化してしまうことはありませんが、A地点まで同一記憶を保持していた吉田氏が、そこから先は個々に別々の記憶をもってB地点に到達するわけで、ある意味「鏡像関係」になっているように思われます。本篇の著者が意識していたかどうか興味あります。

 次に、既に「収容所」と書きましたが、本篇で吉田氏が(分散)収容される施設は、まさに『黒パン俘虜記』や、世に流布する自伝的なシベリア抑留記の記述をまさに髣髴とさせるものです。
 ソ連の収容所運営は、机上論としては本篇の記述と同じで、自主管理による平等な共同生活だったのです。ただしそれは理想的な場合の話で、実際は、同じ捕虜同士である日本人の間で差別被差別構造が発生していた(たとえば黒パン俘虜記における「明石の小政」の暴力支配)。
 本篇では理想的な俘虜生活が、次第に確立していく。これは、ついこのあいだまでは同一人物だった者たちの集合ですから、ある意味当然で、本篇の記述(ナレーション)にもそのように説明されていたと思います。
 その意味で本篇は、不条理小説であり、且つ収容所小説でもあります。

 ところで、当初は原因究明できるまでの仮の措置だった収容所生活ですが、もとよりそれは建前で、不条理現象の原因など解明できるはずがありません。つまり収容所生活は「永遠に」、つまり全吉田氏が死ぬまで、最後の一人が死ぬまで、継続されるであろうことは、本篇に明記されているわけではありませんが、読者には容易に想像できる事態です。

 しかし、ここで「転」が訪れます。二年ほど経過し、同じ吉田氏だった各吉田氏の個性が、次第に他を識別できるまでに互いに離散してきたのです。つまり「自」とも「他」とも判然としなかった吉田氏間に目視可能な距離が生まれた。要するに他者化が進展した。お互い他者と認知するようになっていったわけです。
 その結果何が起こったか。妻から全吉田氏に離婚届が送りつけられ、全吉田氏がそれにサインし、離婚が成立するのですが、それをきっかけにして(単なるきっかけで性衝動はそれ以前から発生していた)、いっせいにカップルが生まれ、その二者間で「交わり」行為が開始される。
 これはまさに相手を完全に客体と認識した結果だと想像されます。
 妻と正式に離婚した全吉田氏(の無意識)は、これでまず既存の社会(端的には日本)との絆が切れた。そこからさらに、自分たちは(すでに独自の言語が生まれていたのですが)現生人類とは別の新人類集団であるとのアイデンティティを得たのではないか。種の保存は類の本能です。生殖行為はそれから自然発生したのではないか。
 その行為が子孫を産むかどうかはわかりませんが、進化の過程で何がどう変化するか、われわれの知の及ぶところではないでしょう(アパッチが食鉄化したように)。
 それよりなにより、一度は「1」が「2万」になったのです。それがまた起こらないとは断言できません。現在、新人類「吉田」の全人口は「2万弱」。同じ現象がふたたび起これば、今度は2万x2万で、一気に「4億」の人口となる。旧日本人1億など、あっという間に圧倒してしまう。
 本篇で描写される生殖行為は、無意識的なその希求なのかもしれません。
 かくして、「吉田同名」は 21世紀の「日本アパッチ族」であるというのが、私の妄想です!(>おい)(汗)

 意外に長くなったので、「半分世界」は明日まわしとします。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月15日(木)20時38分54秒
返信・引用
   殆ど妄想の世界なんですが、現実をあるがままに読み取れないのは、結局、論理的思考ができないからなんですよね。いやはやとんでもない国になってきました↓
元ツイート

 ということで、いまや日本で起こっても決して不思議ではありません↓
元ツイート



 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月14日(水)18時34分46秒
返信・引用 編集済
  元記事

 

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