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承前

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月28日(土)23時48分49秒
返信・引用
  熱死への恐怖という想像力も勿論そうなんだけど、コンプレッサー宇宙というローテクなガジェットに、私はよりSFを感じるなあ。前者はクラークやレム派。後者はニーヴン派。
そういえばコンプレッサー宇宙を面白がれるかどうかで、SF体質があるかどうか判定できるんじゃないでしょうか。
 

SFマガジン1月号より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月28日(土)20時25分30秒
返信・引用  編集済
  テッド・チャン「息吹」(大森望訳)
ちょっと山尾悠子を彷彿とさせるミクロコスモスもので面白かった。この世界(宇宙)は堅牢なクロムの壁で仕切られた密閉空間になっています(ということは「隣の宇宙」の存在が直ちに読者によって予想される)。そして<世界>の大地(床面)の下には「貯蔵槽」がひろがっている。何の貯蔵槽かというと、実に「空気」なんです。貯蔵槽はこの世界のそれより気圧が高くなっており、この世界のすべての動力はこの貯蔵槽から吹き上げる高気圧の空気と世界の空気の気圧差から生じる風圧によって賄われています。つまり一種の《コンプレッサー宇宙》が現前される。これがひとつ目の面白さ。
     私の想像図
       ↓
ibuki

さて、この世界の住民は毎日二本の装着式の<肺>を消費します。この肺はいわばアクアラングのエアタンクみたいなものなのです。あれれ、どうもわれわれ人間とは違うようです。
この世界では、古来空気が生命の源だと思われています。実際事故などで肺の交換が叶わず消費しつくしてしまうと、この世界の生物は「死ぬ」のです。あとで肺を装着して生き返らしても、それ以前の「記憶」は失われているのです。初期化されたように。ここで読者は、この世界の生物が一種のロボットであることに気づく。

次に、語り手の「わたし」は解剖学の学者なのですが、空気が生命の源であるのは間違いないにしても、空気自体に何か神秘的な力が宿っているのではないと見当をつけ、自己の脳の「解剖」を試みる。このあたりの描写が圧巻。で、結果として、脳もまたコンプレッサーの力で、即ち気圧差による風圧によって作動していることを発見する。そしてなぜ記憶が、肺の空気がなくなると失われるかを解明します。ここが第二の読みどころ。

この「発見」は、ただちに、これ以前に伏線となっていた「時計が進みすぎる」現象を解明する手掛かりとなり、その結果、実に何ととんでもない「危機」がこの「世界」に(構造的必然として)訪れつつあることが明らかとなるのです! つまり「急流」現象(cf筒井)が、この世界を成り立たせているメカニズムから必然の帰結であることが証明されるのです!!

いやー面白い。これが僅か13ページに凝集(結晶化)されているわけです。結果として、上に述べたように山尾悠子ばりの幻想的な雰囲気が醸成され、それがそこはかとなく本篇を包み込んでいるように感じられるのです。

ところで本篇は、閉鎖宇宙の危機を描くことで、図らずも「宇宙船地球号」(エントロピー経済学)へのアレゴリーに、結果としてなっています。それについて著者がどの程度意識的なのか(本気なのか)はわかりませんが、ラストの考察はまさに70年代後半に聞いた言説の焼き直しといえなくもない。無論私自身は著者の「警鐘」を支持するものですが、「小説」(の完成度)としてはどうなんだろう。ラストは私には不要だと思われました。先日読んだ『人面の大岩』で、編者のボルヘスが、ホーソーンのアレゴリーに傾く作風をポーが快く思ってなかったと書いていて、そのときはぴんとこなかったのですが、本篇を読んでなるほどと得心したのでした。

いずれにせよ「創刊50周年記念号」のトップバッターにふさわしい傑作短篇で、堪能しました。
 

気温差でも風は発生する

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月27日(金)22時24分21秒
返信・引用  編集済
  今日は日中ずっと汗ばんでいた。ところが夕方になり、気温が下がっているのにそのまま着替えずにいたからでしょう、気づくとふしぶしが痛い。頭もぼんやりしてだるいのです。風邪をひきかけたかも。体が冷えてきているのに脳がそれに気づかないんだね。これが老化なのか。体温調節がうまくいかないなあ(というか衣服の着脱で体温を調整する癖がついてない。若い頃はそんな小細工する必要がなかったもんなあ)。


出だしおお、と思ったけれど、ピッチは下がり気味だし乗りも悪い。似せ物は似せ物ですな。


ホンモノ
 

SFマガジン1月号より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月26日(木)22時21分52秒
返信・引用  編集済
  中野善夫の新連載評論「黄昏の薄明かりの向こうへ」の第1回、「理想郷への帰還と未知の世界への旅立ち」がすばらしい。ファンタジーから見たユートピア論である。著者はまず、著者自身が変化というものを厭うようになっていったのと軌を一にして、SFからファンタジーへと興味が移っていったと自己を分析し、そこからファンタジーが変化を厭う(「世界の変化を嘆く」(162p))心性の小説的顕現であることに気づく。ファンタジーでは「昔はよかった」が基調なのだ。つまり「ユートピアは過去にあるのだ」(163p)ということ。しかしそれはユートピアが即平和と秩序に充足した世界である(あった)ことを意味しない。「ウロボロス」では、平和が訪れた世界で過去の戦乱の世が憧憬される。
これは私にはよく判ります。不肖ワタクシも変化が嫌いな一面があり、寝ていると起きるのが嫌で嫌でいつまでも寝ていたい。でも起きていると、今度は寝るのが嫌でいつまでも起きていたい。この二つの状態は正反対ですが、変化を嫌うという意味では同じ心理の慣性なのです(?)。本篇で著者は、ファンタジーとはそういう小説だといっているのだと私は理解しました。
ファンタジーにおいては、「理想の世界」とは即ち「帰るべきユートピア」だと著者はいいます(つまりかつてあった世界が措定される)。翻ってSFは逆で、昔(あるいは現状)は否定される。停滞は悪であり、変化が賞揚されるのだと。
ここから所論はSFとファンタジーの比較に向かう。ダイアスパーを見よ、ディアスポラをを見よ、と著者はいう。「SFにとって完成されたユートピアは悪なのだ」(166p)と。セヴェリアンは「もちろん黒組みです」と明言する。「ユートピアを諦めたときからSFは始まったのかもしれない」(166p)とは、けだし卓見でしょう。本連載で著者は、(随時SFのそれとつき合わせつつ)「ファンタジーのユートピアはどこにあるか」(167p)の探索に、黄昏の薄明に涵された広大なファンタジーの森に分け入っていくようです。今後の展開が楽しみ(^^)
 

ユニークな検索

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月26日(木)16時26分25秒
返信・引用  編集済
  過疎地の本板ですが、それでもいろんな検索ワードで訪問される方があり面白い。今日は特にユニークなのが多いなあ。
「僕と妻の1778日」云々というのが最近は多いですね。だいたい毎日の訪問者の一割はそうではないか。おそるべし映画化の威力。
「阪南団地」>見学は今のうちに〜。
「ロン・ウッド 浮き名」>うーん検索者の動機が知りたい(笑)。
「王国への旅 リッカート」>私見では傑作になり損ねた。
「松宮静雄」>ご快癒を祈念いたしますm(__)m
「検索」>って何よ(笑)。検索について何か知りたかったのかな? お生憎さまでしたm(__)m
おお、「飲酒 下血」でふたりも! みんな大変やねえ。忘年会シーズンご自愛下さい。

そういえば筒井さんのブログをみたら、湿疹が私と同じ症状→http://shokenro.jp/00000303
わ、筒井さんと同じやなんて、めっちゃうれしい>おい。
私も最初は接触性皮膚炎と思っていたのですが(いちばん最初は手首)、全身に広がってきて、ビタミンBの欠乏症と判った。それが昨日のレバー串につながるわけです。それでアリナミンを毎日服用したら、1週間もたたず、またたくまに治っちゃいました。人間の体ってやはり物質なんだなあとあらためてしみじみ思いました。

いえまあ、検索の話題は単なるマクラなのでありました(^^ゞ

そうだ。SFMが届いたのだった。これからパラパラめくってみるつもり。
 

疲れ気味

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月25日(水)23時24分14秒
返信・引用
  琴欧洲は琴蓮舫に改名したらどうかね(^^;。

亀山房代さん逝去
あれーまだ若いのに。
神奈川県の病院ということは急変で担ぎ込まれたということか。
子供さんも小さかったのでは? ご冥福を祈ります。

立ち寄り先のスーパーで串焼きのレバーを売っていた。ビタミンB不足の症状が出ていたところだったので、5本買って食った。しかしあんまり改善した感じはないなあ。やはりレバ刺しだな。

疲れたので今日はこれまで。

BGM
 

ホーソーン

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月24日(火)21時13分11秒
返信・引用
  「私は蟄居しています。そうしようと意図したわけでは全然なく、そういうことになろうとは思いもしなかったのに、私は囚われ人となってしまい、土牢の中に幽閉され、いまでは鍵もかかっていず扉は開いたままなのに、外に出るのがほとんど恐ろしいほどです」(ロングフェローにあてた手紙《序文》より)

N・ホーソーン『人面の大岩』酒本雅之・竹村和子訳(バベルの図書館88)読了。

昨日は3代目と書きましたが、そんなことはありえませんね。初代のウィリアム・ホーソーンがニューイングランドの地にたどり着いたのがメイフラワー号の10年後の1630年(ボルヘスの序文による)。その170年後の1804年にナサニエルが生まれているわけですから。

とはいえ、そう錯覚させるほど、純然たるアレゴリー小説である「地球の大燔祭」も含めて、本集中の諸作にはまぎれもなくピューリタン植民地としてのニューイングランド(我々はともすれば失念しがちですが)の、いかにも謹厳な土地のにおいがぷんぷんと漂っているんですよね。よく書き込まれていて目の前にあざやかに浮かび上がってきます。その辺が私にとっては<異世界>的で実に面白かった。感想はあとで。

BGM
 

地球の事業仕分け

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月23日(月)20時52分27秒
返信・引用  編集済
  ホーソーン読み中。面白い。「地球の大燔祭」はなんと《事業仕分け》の話(^^ゞ
世界が使い古しのがらくたを積み込みすぎたので、住民は大がかりな焚火をたき、がらくたを一掃することに決める。世界からいろんながらくたが運び込まれる。
まずは家系図や勲章のたぐい。つまり特権の象徴。すると抵抗する者がいる。「諸君はなんということをしでかしたのだ。諸君が野蛮な生活から進歩してきた印なんだぞ。われわれは騎士道精神という高貴にして寛大な思想を受け継いできた。文化や芸術もわれわれの庇護の下にあったからこそ栄えたのだ。それを灰燼にしてしまうのか」。
しかし群集の「引っ込んでろ」の声に慌てて姿を消す。
つづいて世界中の酒樽という酒樽が……。アルコールだから炎は更に高く燃え上がる。つづいて煙草……。つづいて「流行」遅れになった「まだ使える」品々。つづいてあらゆる軍備。老司令官が嘆く。「個人のいざこざはいざ知らず、国どうしのいざこざを治める大法廷こそ戦場なのに」。「あなたは忘れておられる」と主人公は反論する。「ここまで文明が進んでくれば<理性>と<博愛>がその決済機関になるのです」
次に集められたのは、世界中の死刑執行の道具。次に金。次にあらゆる成文法。政令。条例。私的契約書。
続いて大量の本、パンフレットの山。辞書、百科事典、シェイクスピア。面白いことによく燃える本もあれば燻ぶるだけのもある。「焚火の中で最も華麗な姿を見せていたものが必ずしも世間に喧伝された作家ではなかったということだけは申し添えておこう」
「ああ残念だ。世も末だ。私の生きがいが奪われてしまった。たった1冊の本も持てなくなってしまった」。私の隣の男が言う。
「この男は本の虫です。死んだ思想を食うために生まれついた連中の一人です」と別の男。
「ああ、私の本よ。私の大切な活字本よ」絶望した本の虫は繰り返す。「私の唯一の現実は製本された本だったのに」
地球はカドモス以来、はじめて忌わしい文字から解放された。あるいは次代の作家にうらやましいほどの活動の場を残した。
哲学者が自分の理論を投げ込む。その価値を知る人々はこれまでで最も注目すべき犠牲だと公言するも、火のほうは一向に燃え上がらなかった……。
次に集められたのは、「宗教」に関するあらゆるもの。十字架、洗礼盤、ニューイングランド教会の説教壇の切れ端。そしてついに「聖書」が、火中に投じられるが……。
うーむ。これがメイフラワー三代目の限界か(^^;
 

土俵際か九州説

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月22日(日)22時01分46秒
返信・引用  編集済
  『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書09)で安本美典は、卑弥呼がヤマトトトヒモモソヒメと違う根拠のひとつとして、魏志倭人伝によれば卑弥呼には夫がなかったとなっているのに、日本書紀にはモモソヒメは大物主の妻だったと書かれている。明らかに別人じゃないか、と主張されています(171p)。
他の根拠、たとえば箸墓古墳は(纏向遺跡も)4世紀だというのは、私に検証する能力はありませんからなんともいえませんが、大物主という夫がいたというのは明らかに言いすぎです。
だって大物主は神様で人間ではないんですからね(安本先生もこれについては自信がないのか森浩一を引用するかたちで述べている)。神に仕える(卑弥呼がそうでしょう)巫女は神の妻であるというロジックを現実の妻とわざと混同しているのはいただけませんね。これはむしろ「九州説、いよいよ進退窮まったな」と読者に思わせてイメージダウンです――と九州説(妄想)派の私ですが、これにはさすがに要らん心配をしてしまうのであった(^^;

ホーソーン『人面の大岩』に着手しました。

馬飼野康二編曲
 

「最後の宴の客」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月22日(日)14時20分19秒
返信・引用  編集済
  ヴィリエ・ド・リラダン『最後の宴の客』釜山健・井上輝夫訳(バベルの図書館92)

井上訳がどれくらい悪文であるか例を挙げていたら、なんか馬鹿らしくなってきたので中止(^^;。要するに学者の訳に多い100%逐語訳というやつです。それと、例えば文の末尾「だった。」を蜿蜒と連続させて意に介さないたぐいの語感センスのなさ(77p〜78pにかけて5回連続する)。そういうのが読書意欲を甚だしく減退させる。
「歓喜と光明! ありがたい!」(78p)なんて表現、多分フランス語にはこういう慣用句があるんでしょうけど、それをそのまま右から左へ訳してしまうような翻訳家は、少なくともいま現役のSF翻訳家には一人もいないでしょう(笑)。

さはさあれ、原作の出来がよいですから、悪訳の見通しの悪い道を手探りで歩いていても、そのうちに著者の作品世界の地形が判ってくれば、突如さっと視界が展けてくる。そうなればもう一気呵成で、訳文の<文章>そのものは後方に退いてしまい(どんな悪文でも間違ってさえいなければ関係なくなり)、映像だけが眼前に展開されていくのです。逆に世界を映像で見ているので、解釈間違いの訳文は忽ち発見されるという寸法です。

「希望」(釜山健訳)は、死刑を宣告しにきた裁判長が、囚人に宣告し、そして牢屋から出て行くのだが、そのとき囚人は、牢の扉がちゃんと施錠されなかったことに気づく。希望という名の極刑――がすさまじい。

「ツェ・イ・ラの冒険」(井上輝夫訳)、編者のボルヘスが「序文」で「二人の人物の尊大さ」と書いているが、いわれてみればそのとおり。どっちもどっちの狸の化かし合いが、これまた前作同様、ラストの1行で凍りつく。

「賭金」(井上輝夫訳)、これはキリスト教徒ではない私にはよく判らなかった。そもそも「煉獄」って言葉は知っているけど実際のところなんやねん、という程度の知識しかないのでは歯が立ちません。ボルヘスを引用、「『賭金』はプロテスタント全宗派の主張を隠し持っている。その効果は、それを明かす人物が、自分は魂を失ったと暗黙のうちにわれわれに告白するという事実にある」

「王妃イザボー」(釜山健訳)はシャルル6世の正妻であったイザボー「淫乱」王妃の話。「希望」と「ツェ・イ・ラの冒険」について、ボルヘスは「信じがたいスペイン」「信じがたい中国」の物語と評しているが、本篇もフランス歴史小説とみるよりも、架空の宮廷の幻想ファンタジーの雰囲気が強い。結局ボルヘスの表現はこれらの作品が「幻想小説」として読まれるべきだと言っているのだと思います。

「最後の宴の客」(井上輝夫訳)は、本集中では一番長い話で(といっても40ページですが)、出だしは井上悪文に苦しめられて難渋したのだが、ある瞬間一挙に視界が展けてからは、ページを繰るのももどかしく読み終わりました(^^;。舞台は1860年代、著者の同時代のパリ。ナポレオン3世の第2帝政の真っ只中ですね。爛惰な上流階級の風俗を背景に、夜通し遊びまくる3名ずつの男女。そのうちのひとりの男は、気まぐれで拾われた外国人。その男は朝に外せない用事があるとしきりに時間を気にしている。男は辞去し、やがて曙光がサロンの窓に差し込むと……ラストの六点鐘が冷水のように浮かれたブルジョア男女を震え上がらせます。

「暗い話、語り手はなおも暗くて」(釜山健訳)は、一種酒場のほら話もの。これぞショートショートというべきラストが秀逸。

「ヴェラ」(井上輝夫訳)は、「リラダンの全作品中、おそらくもっとも幻想的」(ボルヘス)な作品で、これもまたラストが効いています。

著者リラダンは、ボードレールやユイスマンス、マラルメなど斯界の目利きには激賞されましたが、作品は売れず、ボルヘスの生まれる丁度10年前に、極貧の中でなくなりました。作風は、わたし的にいえば<ウィアードテールズ>っぽく、半世紀生まれるのが早すぎた作家の感が強い。(「未来のイブ」以外の)邦訳はほとんど入手困難みたいです。CAスミスのように、創元文庫あたりで再編集版出ませんかねえ。
 

リラダン

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月21日(土)22時20分18秒
返信・引用
  「日に10時間、全力を集中しても、私には1ページしか書けないのです」(ボードレールにあてた手紙《挟み込み月報》より)

ヴィリエ・ド・リラダン『最後の宴の客』釜山健・井上輝夫訳(バベルの図書館92)読了。
よかった(^^) ところで釜山訳文と比較できるからわかったのだが、やはり井上訳文は悪訳でしたね(笑)。しかし、そんな訳の藪に蔽われていても、それを掻き分けて見えるリラダンの小説世界のすばらしさ! いやーこういう短篇群を読むと新しい作家はもういいなとさえ思っちゃいますね。もうこういうのばっかり読んでいたいです(^^;
いまちょっと、別件で神経が昂ぶっているので、感想はあとで。

BGM
 

紙一重?

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月21日(土)00時09分53秒
返信・引用  編集済
  リラダンの井上輝夫訳、うまいのか悪訳なのかようわからん。悪文なのは間違いないが、それがまた妙に心地よかったりする。完全逐語訳なのかな?  

もうすぐ70

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月20日(金)19時56分35秒
返信・引用
  もうすぐ70
こんな書き方をしていいのか判らないけれど、眉村さんの場合はある意味いつか終着点が来る事は定まっていたわけです。山野さんの場合は自分の方が先に死んでしまう可能性もあるわけですよね。もとより比べる筋合いのものではありません。
 

横正碑建立5周年企画

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月20日(金)01時14分49秒
返信・引用  編集済
  西秋生『ハイカラ神戸幻視行』でも言及されていましたように、横溝正史はタルホと並ぶモダニズム神戸の象徴的存在であることは言うに及びません。
その横正を顕彰して生誕地東川崎町(実際の生家とは諸般の事情で少しずれている)に、畸人郷会長にして神戸探偵小説愛好會會長の野村恒彦さんらのご尽力で、生誕地碑が建立されてから、早いもので5年が経ちました。
生誕地碑建立5周年を記念して、来たる22日の日曜、有栖川有栖さんの記念講演が開催されます。詳しくはこちら→http://www.portnet.ne.jp/~noraneko/2yearceremony.htm
なお、内輪の会ですので、聴講希望者は必ず野村さんにご連絡の上、ご参加下さい。

その記念講演に連動しまして、同じ東川崎町の映画館シネモザイクにおきまして、横溝正史原作映画が特集上映されるようです→こちら
おりしも「獄門島」は大原麗子追悼企画ともなっており、この機会にぜひともご覧になられては如何でしょうか。
 

健康的飲酒

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月19日(木)23時06分45秒
返信・引用
  週末に下血してびっくりしたのだが、どうやら過度の飲酒が原因のようです。たしかにこのところの飲み方は半端じゃなかったからなあ。
だいたい飲み方がよくないのです。テレビを見ながら、パソコンさわりながらという感じで、「ながら」で飲んでいて際限がない。水割りとか面倒臭いからストレートで飲む。ゴクゴク飲むんじゃなく、コーヒー代わりみたいな感じで舐めるように飲んでいる。だから3時間でも4時間でも飲めるわけで、10時過ぎくらいから寝るまで飲んでいる。当然飲むだけ。何も食べないのです。
で、今週は禁酒していた。おかげで以降下血はなくホッと一安心。
ただ、いいことばかりではなく、禁酒の間、この掲示板に書くことを何も思いつかなかったのですね。これは困った。ここ数日パソコンの前に坐っても一行も書けなかった。どうも飲まないと頭がぼんやりと働かないみたいです(おい)。
ということで、慧眼の読者は既にお分かりでしょう、今日から飲酒を再開したのでありました(水割りは薄くて美味しくないので、健康に留意してストレートを口に含んで味わってから、水で飲み込むようにしています)。
 

事業仕分け

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月19日(木)20時02分48秒
返信・引用  編集済
  GXロケットを「廃止」
産業界から悲鳴

いいのではないでしょうか。私はそう思います。生活意識で世界ナンバーワンからかけ離れた実感しか持てない私には当然の措置にうつる。
たとえばJAXAの職員の親の(できれば就職時点での)所属階層(端的には年収)を出してみるとよろしい(あ、平均は要らない。100万円単位でのパーセントで結構)。先端技術を、いまやどの階層が支えているか判るのではないでしょうか。すなわち教育格差の固定化が現在の日本の先端技術にはっきり見えてくるのではないかと私は予想しますね。
そういう趨勢の、もう一方でのあらわれが、歴史的知識のないことが丸判りのネットに蟠居するネトウの言説であるわけです(つまり真っ当な教育から疎外された存在)。
つまり日本は、いまやどんどんウェルズ「タイムマシン」の世界へと向かっているんだと思います。
その意味で、高校無償化はとても意義ある施策の変更で、こういうことのために上記の削減費が回されるのであれば、全然無問題(ただし内容的には「塾」へ行く必要のない授業システムの確立が必須)。10年遅れても100年後を見据えるべき。

ヴィリエ・ド・リラダン『最後の宴の客』に着手。
 

「時をかける少女」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月16日(月)23時10分16秒
返信・引用  編集済
  GyaOで、オリジナル版「時をかける少女」(83)を見ました。
あれ、こんな映画だったっけ。すっかり忘れてるなあ。ラストの主題歌も、わが記憶では荒井由美だったはず……うーん、記憶の捏造?
とはいえ大林監督の映像美はやはりすばらしい。少女の思春期とタイムリープを重ね合わせるシナリオもよく出来ています。でも今見ると学芸会ですなあ(^^;。
 

「火星の落日」誕生秘話

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月16日(月)19時26分25秒
返信・引用  編集済
  「火星の落日」の編曲者を管理人としたのは、すでに40年も前の記憶からのみ構成したものであるため、くだんのmidiが実際のマリア四郎さんが歌った「火星の落日」を再現できているかはなはだ心もとないからで、他意はありません。
だってこの曲(midi)に、歌詞がちゃんとのらないんですから不安にもなろうというものです(汗)。
ひょっとしたら実際の曲は、四郎さんが詞を補作して調子を合わせているかもですね。またA →A’の繰り返しで第2主題がないのは間違いないと思いますが、単に忘却している可能性もなきにしもあらず。
ということで、もし間違っていましたら、ご指摘お願いします。私も正確な曲を知りたいのでm(__)m

マリア四郎さんが歌手であるのを知ったのは、実は石川誠壱さんに教えていただいたんです。それまではファンの人が勝手に作曲してチャチャヤングにテープを送りつけたのを眉村さんが気に入って放送していたんだと、ほんの数年前まで思っていたのですよね。

そのマリア四郎さんですが、当掲示板に来て下さったことがあります(05年5月、05年7月の過去ログ参照されたし)。
それによりますと、四郎さんが戸川昌子さんの「青い部屋」で歌っておられたところに、眉村さんが、たぶん飲みに来ていらっしゃったんでしょう、原稿用紙に「スラリコ・スラリリ」の詞をさらさらと書かれて、四郎さんに手渡し、曲をつけるようにとおっしゃったのが、この名曲誕生のきっかけだったそうです。伴奏のピアノが馬飼野康二だったというのも驚かされました(常田富士男でレコード化の話もあったとのこと)。
しかしMBSのテープは既に行方不明ですし、四郎さんもコピーをとってなかったということで、まさに幻の名曲になってしまっています。40年前に聞いたメロディをここまで再現できただけでも(いやどれだけ再現できているのか自信はないのですが、私が覚えているのはこういうメロディなんです)、よくもまあ覚えていたものだと、私自身はほめてほしい心境なんですよね(^^;

 

「スラリコ・スラリリ」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月15日(日)22時13分46秒
返信・引用  編集済
  火星の落日
     作詞:眉村卓(「スラリコ・スラリリ」より)
   作曲:マリア四郎
   編曲:管理人


     スラリコ スラリリ
     ヒルルト
     リリリ

          火星の 土が
     こわい
     と
     泣いた あの子の
     小さな お墓……

     スラリコ スラリリ
     ヒルルト
     リリリ

     むらさき 空は
     いやよ
     と
     泣いた あの子の
     小さな お墓……
 

「午後の恐竜」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月14日(土)15時19分55秒
返信・引用  編集済
  先日の曲教えていただきました。これ↓



実は「たそがれマイラブ」という言葉が浮かんでいたのですが、それが違うのは判っていた(大橋純子)。「とまどいトワイライト」でしたか。無意識はかなり近いところまで来ていたんですね(^^;
しかし、豊島たづみという名前にはまったく記憶は反応しませんね。ラジオかどこかでふと耳に流れたんでしょうか。
それにしてもなぜ近頃、こんな記憶の底に埋れたメロディが浮かび上がってくるのか。これはひょっとしたら、パノラマ視現象ならぬパノラマ聴現象なのでは? だとしたら……うーむ。今はポツポツですが、これからどんどん忘れていたフレーズやメロディが立ち上がってきて、最終曲面では私の脳内は無数のメロディが鳴り響くのでありましょうか?(汗)

おまけ


いま映像を見て気づいたが、太陽の塔立て籠もり中も会場は通常営業されていたのか。何とものどかな時代相を感じますね。
 

有朋自遠方来

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月13日(金)23時26分39秒
返信・引用  編集済
  ということで、久しぶりに大阪に行って会ってきました。
行ったのはここ→EXPO CAFE
場所は某エンターテインメントノベル講座のエル大阪のほん近所。二次会の中華料理屋の通りを2ブロック上がったところで、リンク先を見てもらえれば判るように、「1970年」がお店の中に集結していて、ある年代にはたまりません(^^)
興味がある方はぜひお立ち寄り下さい。

マスターは、その筋では(どんな筋だ)かなり有名な方らしく、いろいろお話を伺うことができました。皆さん、EXPOのコンパニオンさんが、当時あまりの労働条件の悪さにストを決行したなんて知ってましたか。私は知らなかった(^^;
今は企業パビリオンのコンパニオンのユニフォームを集めているそうで、しかしまだ3分の一程度だとか。もしお母さんとかおばさんがEXPOのコンパニオンやってたという方がいらっしゃいましたら、ユニフォームまだ保管しているかいちど聞いてみて下さいませんか(^^;

さて今日は誰に会っていたかといいますと、上の記述で大方見当が付いたのではないかと思いますが、ライターの大橋さんとお会いしたのでした。となれば当然仕事がらみ。乞うご期待!

その大橋さん編集の『メカニック・ファンタジー 小松崎茂の世界(仮)』が来月出版されます→版元
限定2千部で、予約申し込みが僅少の場合は中止とのことでしたが、どうやらGOサインが出た模様。ということは予約申し込みが順調ということなんでしょう。興味のある方はお急ぎ下さい。

眉村さん原作のEXPO漫画→EXPO大怪戦
 

教えてください

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月12日(木)23時21分45秒
返信・引用
  アルディにひきつづき、識者に教えを乞いますm(__)m
今日突如頭の中に甦って鳴りつづけているんですが→このフレーズ
まったく思い出せません。だれのなんていう曲でしたっけ?
よろしくお願いします。
 

阪南団地

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月11日(水)23時49分50秒
返信・引用  編集済
  今日、前を通ったのだが、一階の店舗部分の壁面が剥されかかっていて(ベニヤで覆われていて)、いよいよ取り壊し間近という感じだった。
 

古代都市纏向

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月11日(水)22時56分38秒
返信・引用  編集済
  纒向遺跡:3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か

今朝、朝刊を読んでびっくり。まるで九州説派の反撃を待っていたかのようなカウンターパンチではありませんか(笑) いやー面白くなってきました。安本先生の心境やいかに。
しかしどういう根拠で市教委は3世紀の建物と断定したんでしょうか。新聞記事やネット記事をざっと見た限りでは何も触れられていませんね。ただ単に纏向遺跡が3世紀の遺跡だから、そこで発見された建物は当然3世紀のものだと、そういうことなんでしょうか。その辺詳しく知りたいところ。
安本先生は、先日読んだ新書では、纏向遺跡自体4世紀の遺跡と考えているようなので、大型建物が発見されても一向に痛痒を感じていないかもです。

とはいえこれまで古田武彦、大野晋らを相手に数々の論戦を挑んできた古代史武闘派の安本先生のこと、必ずや更に激しく反撃にはうって出ることは間違いありません。これは楽しみだ。次出る<季刊邪馬台国>は必見ですね。買い忘れないようにしなければ(^^;
 

「パラケルススの薔薇」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月10日(火)23時46分22秒
返信・引用
  J・L・ボルヘス『パラケルススの薔薇』鼓直訳(バベルの図書館90、原著80)読了。

この叢書の例にもれず薄い本で、各10ページから20ページ程度の短篇4篇と、50ページのインタビュー1篇が収録されています。著者晩期(原著出版時81歳)の作品集ですが、依然面白い。

「一九八三年八月二十五日」は、80年出版時点から言えば未来小説です。
 ――夜おそく、<私>がホテルに着き宿帳にサインしようとすると、すでに私の名前「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」のサインがなされていた。主人によればついさっき投宿していつもの部屋にいるとのこと……。
部屋では、ベッドに私である男がおり、しかしずいぶんふけている。男によれば、今は1983年で自分は84歳になったばかりだという。私はきのう61歳になった。まだ若いボルヘスと死の直前のボルヘスの対話。やがて年老いた男は死に、悲嘆にくれた私が枕に顔を近づけると、もはやそこには誰もいないのだった……
まるで聊斎志異の一編のような玄妙静謐な佳品。

「パラケルススの薔薇」
 ――パラケルススのもとに弟子志願者が訪れ、火中に燃え尽きた薔薇の再生を乞う。それは畢竟パラケルススはイカサマ師であると無理矢理告白させる所業だった。弟子志願者は愧じ入り辞去する。独りになったパラケルススの手に薔薇は甦る……

「青い虎」
 ――伝説の青い虎があらわれたときいた私がその地へ赴くと、村人が歓待してくれ、便宜をはかってくれる。しかしいつもついいまし方までいたのに、あなたが来る寸前に消えたという話になる。私は彼らを疑い、夜、一人山に登る。虎は見つからなかったが奇妙な石を拾い、持ち帰る。それは増殖する石だった……
これまた(舞台はインドですが)中国風<怪奇小説>を彷彿とさせられます。

「疲れた男のユートピア」は、一転<幻想小説>です(本篇のみ『砂の本』にも収録)。
 ――著者の分身のような70歳の作家である<私>が無涯の平原(「地球のどの場所でも「平原」はひとつであり、同じである」)を歩いている。やがて一軒の家があらわれ、主人が私を招じ入れる。そこは未来らしかった。最初は言葉がわからなかったが、やがてそれがラテン語であることに気づく。そのうち数人の男女がやってきて、家の中を片付け、何も残さず荷造りをし始める。主人を筆頭に、荷物を担ぎ家をあとにする。15分も歩くと、建物が現れる。「焼却場ですよ」と誰かが言った。「内部には死のガス室があります。グスタフ・アドルフ・ヒトラーとかいう名前の、博愛主義者が発明したものだそうです」
構内に入る前に、主人は手を振って別れを告げる……

うーん、いいですねえ。グラスにそれぞれ少しだけ注がれた4種類の芳醇な美酒を堪能した気分。他一編「等身大のボルヘス」はボリュームたっぷりのインタビュー。
 

Re: 僕と妻の1778の物語

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 9日(月)18時26分9秒
返信・引用  編集済
  > No.2150[元記事へ]

大橋さん

眉村さん情報ありがとうございます。
おお、これはまたとびきりのホット情報ですね(^^)
眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書)
1778


しかし、草なぎ君と竹内結子さんですか……いえ、いいんですけどね。
しかし、草なぎ君と竹内結子さんですか……いえ、いいんですけどね。
しかし、草なぎ君と……(もうよろし)

私の《脳内ドラマ》では、老作家が70歳を目前にして糟糠の妻を失うという設定が欠かせないんですけどねえ。草なぎ君ではちと若すぎるのです。そういう設定から生じてくるはずのプラスアルファーが草なぎ君では発展させられない。たとえばわがドラマでは、既に独立した娘の存在が大きくなる。執筆依頼を断わってどんどん二人だけの世界に埋没していく老夫婦にとって、ときどき帰ってくる娘が唯一の社会との接点となっている。娘の向こうに社会があるのです。娘を通して社会と繋がっている。この物語は、私の妄想するところではおそらく夫、妻、娘の三位一体の物語なんです。草なぎ夫婦ではせいぜい幼稚園か小学校の子供ですよね。たぶん子供はいないという設定になるんでしょう。
まあ、原作からはかけ離れたお涙頂戴オンリーのシナリオ(不治の病もの)になるのは目に見えているのでいいんですけどね。
あ、今思いついたんですけど、どうせあざとくいくんだったら、長門裕之さんという手もあったのでは? 眉村さんと同い年ですし、境遇も似ていて集客効果抜群ではないでしょうか。わ、不謹慎なことを言ってしまいました。済みませんm(__)m

いずれにしてもドラマをきっかけに作家眉村卓が広く知られるのは結構なことで、期待しています!←説得力なし

 *)なお、以上はわが妄想、フィクションであり、現実の『妻に捧げた1778話』とは無関係な与太話ですのであしからず。
 

僕と妻の1778の物語

 投稿者:大橋博之  投稿日:2009年11月 9日(月)07時28分32秒
返信・引用
  SMAPの草ナギ剛と竹内結子が来冬公開予定の映画「僕と妻の1778の物語」(監督・星護)で夫婦役で共演する。SF作家・眉村卓さんと02年に大腸がんで死去した悦子夫人の闘病実話をもとにした夫婦愛の物語を演じる。
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20091109-OHT1T00040.htm
 

「急流」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 9日(月)01時00分35秒
返信・引用
  小学校の忘年会の連絡メールが来た。えー、この前やったばっかりやん、とまじで思った。時間の流れが速すぎる。これはもう滝の落ち口がすぐそこまでせまって来ているのではないか。そういえばごおごおという音が、かすかに聞こえてこないか――気のせいか?  

『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 8日(日)21時11分25秒
返信・引用
  安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書09)読了。
後半は著者持説(邪馬台国=北九州(朝倉)説)の、新データも加味した補強――著者を読むのが久しぶりのわたし的には。
いやー、九州説も捨てたものではないですなあ(>すぐに影響される私(^^ゞ)

マイルス「パンゲア」、ツタヤで借りてきて久しぶりに聴いたのだが、やっぱり私は駄目だなあ。個々のパートはそれなりに聴きごたえがあるのだが、一個の完結した作品としてみると、どうもメリハリがないのですよね。一本背骨が通ってないというか。ライナーノートによると、編集はなされてないとのこと。となるとビッチェス・ブリューがよかったのは編集の勝利ということになるのでしょうか(笑)。
 

集計操作の陥穽

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 7日(土)22時57分14秒
返信・引用  編集済
  あ、日本シリーズ見るの忘れてた。見るのも忘れて何をしていたかといいますと、安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書09)を読んでいたのでした。とりあえず半分(第1章)読んだ。
出版を急いだためだろう、メモの切り貼りで重複は多いし、文章も推敲されていません。その意味で非常に出来の悪い本です。しかし内容は傾聴するに値します。
要は歴博の発表が、何らかの意図が入った科学的手続きに不備があるものだと、執拗に糾弾しているわけです。
統計的操作が、一見科学の顔をしていますが、実際は恣意的な使われ方をするのは(悪用されるのは)、会社員である皆さんはきっと身に覚えがあるはずです(笑)。歴博の発表はそういう類のものであるようです。具体的には、C14測定の資料となる木材(炭化物)が、種類により<古木効果>の影響を受ける度合が違う点を(故意にか)無視して同列に扱うことで、箸墓2世紀半ば造営という虚構の結果が導出されたとします(240年〜260年への絞り込みはまた別の「操作」があるとする)。

昔SFMに「人気カウンター」というコーナーがありましたが、NWが勃興し作品内容(質)が複雑化すると、読者(に専ら任されている)の採点基準も当然多様化してきます。そうしますとありうる状況として、任意の作品Aは問題作で、5点と1点が同数集まり、集計すると平均3となったとします。一方で、決してつまらなくはないけれども大して面白くもない作品Bが、万遍なく3点を集めたとします。この作品の評点も3点となり、作品Aと作品B の評点は同じとなります。ではこの2作品は同程度の作品なんでしょうか?
もちろん違うのです。ことほどさように質への評価を欠いた量的把握は「意味」を析出しません。
昔山野浩一が週刊読書人のSF時評で73年の総括として「日本沈没」をワースト1とするワースト3だったかワースト5を発表し、但し自分とは別の見方をする人はこのリストがベスト3となるだろうとしたのは、まさに上記のような(素朴な)集計の無意味さを衝いたのだと私は憶測しているのですが(それかあらぬか「人気カウンター」は翌74年に廃止となります)、歴博の<古木効果>への配慮のなさは人気カウンターの配慮のなさと同じなのではないでしょうか。本書を読んでふとそんなことを思い出したのでした。
 

「アメリカの夜」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 7日(土)00時39分57秒
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  今日は野球がなかったので、ツタヤで借りたフランソワ・トリュフォー監督「アメリカの夜」(73)を見ました。いうまでもなくウルフ「アメリカの七夜」の元ネタです(>嘘です)。
主演はジャクリーン・ビセットですが、真の主役は映画の中での監督役でもあるトリュフォーですね。これは「映画監督ってホント大変なんだよー」という自慢/苦労話です(^^;。
であると同時に、映画制作を舞台にした、ある意味小川一水が書いているような、いわゆる「プロジェクト小説」ならぬ「プロジェクト映画」なんですね。
タイトルは夜のシーンを昼間に撮るテクニックのことで(英題は「Day for Night」)、そういうスタジオ撮りの裏側を見せるのが売りになっているようです。またそれは役者という存在にも通ずるもので、「あんたらの生活はまやかしだ」と叫ぶ女はある意味正しいのです。個々のエピソードは浅いのですが、全体として混沌から統一体へと組織化されていく過程がまさにプロジェクトの醍醐味で、紆余曲折を経たラストシーンは、ロードショーならば拍手が起こったかも知れません。
しかし作中でも語られるが、図らずも本篇は、こういった一種「手づくり」の映画作りへの<挽歌>となっているように思われてならない。本篇からわずか3年後、世界は「スターウォーズ」の出現に驚かされることになるのです(トリュフォー本人が「未知との遭遇」に出演しているのは何たる皮肉でしょうか)。
 

ライ・ラ・ライ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 5日(木)23時24分38秒
返信・引用  編集済
  2000冊も読める者はいません。私は400年生きているが、15冊を超えることができなかった。(ボルヘス「疲れた男のユートピア」)

酒屋に行ったら、ライウィスキーというのがふと目に入った。そういうウィスキーがあるのは知っていたが、飲んだことは(たぶん)なかったので買ってみた。私の粗雑な舌ではバーボンと区別がつかないのであった。あ、でもまだストレートで2杯目なのに、もうなんか頭が痛くなってきた。バーボンとの違いはこれかな(それは違う)。
 

訃報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 5日(木)00時38分4秒
返信・引用
  レヴィ=ストロースが亡くなったのか。享年100歳とか。77年に来日の際、わが大学でも講義があったのだが、私はデートの方を優先して行かなかったのでした(^^;。出席した友人によるとやはり○とか△で説明してたらしい((笑)。そんなことを思い出しました。30年前の昔話であります。合掌。  

無意味な解説と意味ある無言の市

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 4日(水)21時05分56秒
返信・引用  編集済
  日本シリーズ第4戦を見始めるも、解説のお粗末さにがっくり。解説にドラマは要らないんだよ。今行なわれている試合について具体的に説明しろっての。
あまりの馬鹿らしさに、攻守交替時にチャンネルを変えてみました。ちょうど座頭市をやっていた。なんとなく見ていたら引き込まれて最後まで見てしまう。

いやー面白いね。こういうのを見ていると、最近の映画やドラマは、主人公が喋りすぎだなとつくづく思いますね。いちいち自分の行動を口で説明しますもんね。うざい。視聴者はうざくないんかいね。
その点、市は基本的にほとんど内面を言葉で説明したりしません。見てりゃ判りますもんね。それとも今の視聴者は、ぜんぶ説明してあげないと分からないのかね。そんなことはないでしょう。
いま思いついたのだが、これって変身ロボットもので、変身の際必ず「今から何に変身するか」口で言うのから始まっているのではないか。「ライダー、キーック」とか。叫んでいる暇があったら先に動けよ(^^;

映画が終ったのでチャンネルを戻したら、丁度李が代打で出てきた場面。投手は左腕。アナウンサーが「左対左ですが」と解説に聞いている。解説「李ぐらいの選手になると右左関係ありません」。アナ「なるほど」と大きく頷いているそのとき、画面の隅に李の左右での打率が。左.25、右.21と出たのだった。

こいつら馬鹿か。

そんな一般論での解説ならおれでもできまっせ。お粗末にもほどがあるっての。
ということで、あまりの馬鹿馬鹿しさに、7回途中だったが消してしまいました。あーあ。
 

梨田と宮本

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 3日(火)22時06分11秒
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  今日は梨田の采配ミスがすべて。まず糸数の交替時期を誤った。はじめからシュート回転していて不安定だったが(ちなみに速度が足りないからシュート回転する)、5回は球の力が明らかに落ちていました。松本のヒットで交替かと、誰もが思ったはず。動かなかったのは不審(後ろは豊富にいるのに)。あそこは観ていた皆が皆、やっぱり打たれたなと思ったんじゃないかな。
8回表、高橋の併殺も、前の試合同様に前進しすぎていた李が、第1球でバントなしとふみ後退した場面、ここで一転バントだ、と、少なくとも私はそのときそう思ったぞ。8回裏代走鈴木の盗塁をフリーでさせてしまったのは解説の宮本も守備の戦術ミスだといってました。
うーむ。梨田はセリーグがまったく経験がないんだったな。投手交代の後手は意識過剰か。しかし6回は345の打順なのでそれも考えにくいなあ。そういえば近鉄監督時代に経験があるはずだよなあ。
とか、そんなことを考えていると、(宮本がそれとなく指摘していたように)そもそも森本を落として糸井を選択したところから、既にして今日の敗戦は決まっていたような気もしてくるのであった(^^ゞ
あ、私は別にハムのファンではありませんよ。ただ40年来の筋金入りアンチ巨人なだけです(^^;

『所有せざる人々』に復帰するも、全然進みません。完璧な作品で全てにおいて考え抜かれている。そのことがびしびし伝わってくるので、1行読んでは考え込んでしまうのです。ようやく90ページに達したけれど、無理に急いだりせず、連載小説でも読むつもりで、すこしずつ進めていこうと思った。そういう態度で読むべき本だと私は思います。
 

新庄と野村

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 2日(月)22時14分20秒
返信・引用  編集済
  昨日の話だが、新庄、原田のぶりんにそっくりじゃなかったですか? 笑ってしまいました。
その新庄、糸井の守備に関して、ホームで刺せると思ったらわざと突っ込まずにゆっくり捕球して、それを見て飛び出した走者を本塁封殺するもんなのだよ、みたいなことを言ってましたよね。その点糸井はまだまだだと。
そういえば野村がCSの最終戦だったか、中谷が相手バッターのバンド失敗で上がった小飛球をキャッチしたことに対して、あれはわざとワンバンさせて重殺を狙わなければ。その一瞬の判断が出来なければプロ失格。と叱っていたのと通じると思いました。阪神時代の野村は新庄には甘かったが、それは彼の外野守備のそういうセンスが気に入っていたからでしょうね。また新庄の上記の弁はこれまでに複数回聞いており、少なくとも守備に関しては(笑)新庄は言語化できていたということでもあるんですよね。

野球がないので、GyaOで「009-1」を見る。石森章太郎の「009ノ1」のテレビアニメ化らしい。2006年作品。全12話中前半6話がアップされているのを一気見。お色気ゼロ、萌え要素ゼロなのがよかった(^^;。後半分も、もしアップされたら見るかも。
 

今岡と野村

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 1日(日)14時50分12秒
返信・引用
  日本シリーズ、の試合結果はさておき、野村の解説に堪能。いやーやっぱりうまいねえ。聞きながら見ると3倍楽しめます(^^;
結局、それは野村が野球というものを「言語化」し得ているからで、それが解説に援用されているわけですね。野村自身、ことあるごとに自分は凡才だったから、すべて考えて(意識化して)身につけた。そうしたからこそ生き残っていけたといっています。対極にいる長嶋はおそらくまったく言語化などしたことがないでしょう。天才はそんなことをする必要がなく、体が覚えていて勝手に反応しているのですね。

ところで昨日うっかり書き落としたのでしたが、樺山三英「すばらしい新世界」に次のような記述があります。

「我々はふつう、成長の過程で、話すことや歩くこと、手を動かすことなど、基本的所作を身につけて行きます。こうした活動はあまりに自然に成されるがために、やがて意識することがなくなっていく。(……)ところがこうした活動にいったん障害が発生すると、元に戻すことは容易ではない。習得自体が無意識裡に成されているため、矯正しようと意識するほど、かえって回復が難しくなる」

これは現象学で<自然的態度>といわれる状態なんですが、メリルはこれを「水というものの存在に最後まで気づかないのが魚だろう」といっていますね。
長嶋型の野球選手はこれなんです。長嶋が38歳で現役引退したのに対して、野村が45歳まで現役でいられたのは(他の要因もありますが)、野球を言語化し得ていたからこそ。不調からの復元も容易だったし、衰えをカバーすることも出来た。

現代の長嶋型の代表選手は言うまでもなく今岡誠です。彼が結局不調から立ち直れなかったのは、長嶋以上に野球を体でしかやってこなかった結果なのではないか。阪神時代、野村と今岡が全然合わなかったのは周知のとおりで、それは以上のことから当然の帰結なんですが、今岡の全盛期の出会いだったのが不運でしたね。今岡の方に聞く耳はなかったわけです。でもいまならどうか。もう今岡自身に自分の野球に対する態度に100%の自信はないでしょう。実は山崎もかつては長嶋型だった。ところがどんどん衰えていくそんなときに野村と出会った。だからその言語化された理論を虚心坦懐に内面化することが出来、復活した。今なら今岡も野村再生工場で十分再生できるはずと私は確信するのですが、それはもはや望めないわけです。野村と今岡は、そもそも相容れることのない星の下に生まれていたのかも知れませんねえ。

ということで、「SFマガジン12月号」の感想文をチャチャヤン気分に格納しました。
 

「SFマガジン12月号」(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 1日(日)01時12分35秒
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  くしゃみと鼻水が出てきたので、あわてて一枚重ね着る。ただちに症状は消えました(でも今度は蒸し暑くなってきた)。うーむ。どうも体温調節が後手後手であるなあ。昼間は脱ぐのが遅れて汗かいてるし。この季節の日中朝晩の気温差(への対応の遅延)が体調不良の根源かも。体自体の自動調整機能が落ちてるんだよなあ。昔はそんな衣類での調節は不要だったのだから。重ね着の着脱で知る老化かな。哀号。

樺山三英「すばらしい新世界」を読む。
やあこれはすごい。たくらみにみちた快作。オルダス・ハクスリーについてはほとんど知らなかったので、読後検索したところ、本篇に記されたことはほぼ事実どおりですね。「すばらしい新世界」執筆後、目の治療でアメリカに渡り、オズモンドやハバドを知り、幻覚剤による意識拡大(減量バルブを緩める)を体験することで独特の神秘思想を形成し、ケネディ暗殺の数時間前に亡くなっています。

本篇はハクスリーの後半生をマクラに、「先生」の一番弟子の「助手」に対する訊問(?)の記録の体裁。独特の視力回復の理論・実践家である「先生」の造型には、ハクスリーが治療を受けたベイツ・メソッドとアレクサンダー・テクニークが援用されているようですが、著者が「先生」をして語らしめる「視力回復」(実際は認識回復にずらされる)理論は、現象学を下敷きにしたものといえる(知覚の現象学)。この辺はモロ好みです(^^;
まず、そのような観念をのせる文体がしっかり安定しているのがよい。クリアーです。ここのところ最近出てきた新鋭作家を読んでいますが、文体の完成度では一頭地を抜いていますね。冷静で熱くならないので走らないのですね。ある意味昔ながらの文体で、描写部分の世界が安部公房や石川淳「鷹」を髣髴とさせるのも好み(とりわけA28から垣間見える世界)。

知覚の拡張・意識の拡大のトレーニング集団だったのが、次第にセクト化しテロ化して頽落していく描写がすばらしい。彼らが戦う「奴ら」は、おそらくウィリアム・バロウズに出てくる「敵」と同じでしょう。ラストでその「奴ら」と「我々」が倒立し、訊問者と非訊問者が入れ替わる展開も安部公房を思い出させずにはおきません。

いや面白かった。樺山三英、「年刊SF傑作選」も面白かったし、有望な新人があらわれましたね! 遠からず山田正紀のポジションを奪ってしまうのではないでしょうか。要注目。
以上で『SFマガジン2009年12月号』読了。

あ、書き忘れた。大橋博之「SF挿絵画家の系譜」、今回は、これは懐かしい勝呂忠。うむ、言っていることはかなり同感。最近でこそペーパーバック表紙の認識が少し改まりましたが、今でも白背の人物主体画は好みません(^^;
 

今日の予定

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月31日(土)18時46分6秒
返信・引用
  今日は仕事を休みにして休養した。てゆーかずーっと寝ていた。というか横になってうつらうつらしていたら忽ち日が暮れてしまったのであった。そんなに残ってるわけでもない生存時間をあたら無為に過ごす。なんたる贅沢。哀号。

というわけでもそもそ起き出してきました。これから日本シリーズを見る。終ったら樺山三英を読む。昨日パラパラと見たら別に繋がった長篇の一部ではないみたいだったので。で、できれば今日中にSFMの感想を終らせたい。時間があれば「所有せざる人々」に戻る。無理なら寝る。そんなところ。それ以降は未定。

うーんと。まあどんなに頑張ったって、私に予定できるのは12時間以内までなんだよな。なんという射程の短さだ。哀号。

あ、そういえば昨日チャチャヤン気分のカテゴリーを作家別にしようとしたらこれ以上カテゴリーは作れませんとなった。使えないなあ。別のカテゴライズを考えなければ。
 

感想文格納

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月31日(土)00時16分48秒
返信・引用
  昨日はなおっていた右目が、また今日は調子が悪い。ころころした感じで、肩こりの症状も出てきた。睡眠不足なのかな。

「方舟さくら丸」と「ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)」の感想文をチャチャヤングに追加。
 

SF短歌のBNF

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月30日(金)17時36分12秒
返信・引用
  今気づいたが、<エトセトラ>欄にSF短歌誌〈フロンティア〉の終刊号の告知がのっています。
松宮静雄さん難病のためとのこと。

倒れてはならぬ身つひに倒れたり 自室より廊下に出でしばかりに

うーむ……
 

SFM12月号(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月29日(木)22時24分33秒
返信・引用  編集済
  エレン・クレイギス「図書館と七人の司書」
一見さわやか風の話ですが、これ、よく考えたら実にいびつでおぞましい話なんですよね。

M・リッカート「王国への旅」
前半(作中作)は見事なケルティック・ファンタジー。特集解説で「作中作だけでも短篇として成立するクオリティがあります」と書かれていますが、まさにそのとおり。
ところが後半はホラー寄りのありがちなモダンファンタシーでがっかり。

菅浩江「鎧と薔薇」
本篇、目次には<読切>とあるが、実際は不定期連載の長篇なのではないだろうか。リアリティのまったくない古代史部分にのけぞる。「外人」と書いて「そとびと」と読ませているがありえない。あえてよむなら「とつびと」だろう。「そと」は室町以降の読み方(岩波古語辞典に拠る)。そとびとの誤用がトリックの伏線だったら謝るけど(汗)。高床式の建物を「二階家」と書いているのも変。一階があってこそ二階家。
古代史パートと現代パートが繋がってないのも本篇が長篇の一部だからだろう。民俗学的な「化粧」との関連で繋がっていくのなら楽しみ。

次の樺山三英作品も、<読切>とあるが不定期連載みたいで大丈夫なのか? とりあえず跳ばして、<リーダーズ・ストーリイ>齋藤想「太陽系の果てで」を読む。酷寒で大気もないトリトンで発見された「白骨」死体の謎。これは面白かったです。
 

SFM12月号(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月29日(木)21時06分44秒
返信・引用  編集済
  「アボラ山の歌」追記。

「一瞬の心変わり」と書きましたが、主人公が自身の心変わりを明確に意識して、その行為――母親にボーイフレンドを紹介するという行為に及んだとは、必ずしもみなすことはできないのです。
本篇を既に読まれた皆さんの中には、かかる行為を「心変わり」とみなす私の想定では、「もしかすると、マイケルは母に恋してしまうかもしれない。だけどときには、危険をおかさなければいけないときもある」という主人公の「意識」と矛盾するのではないかと思われるかもしれません。
たしかに一見そう見えます。
しかしなぜ、当初は「ぜったいに会わせないわ」とかたく思っていた主人公が、突如、母親と恋人を引き合わせようなんて、そんな危険な行為に出たんでしょう。まったく筋が通りません。この心理の変化こそ不可解ではないでしょうか。

私にいわせれば、主人公は――いや主人公の意識は、自身の「心変わり」に、実はまだ気づいていないのです。しかし無意識では既に、気持ちはコールリッジに向いてしまっている。コールリッジを知ったことでマイケルへの気持ちはその瞬間に醒めてしまったのです。そこで彼女の無意識は、マイケルと母親とを会わせることで、結果としてマイケルが母親に恋してしまうことを、未必の故意に(但し可能性は100%に近い)望んだ。それはとりもなおさず、(形式的には)自分が振るのではなく、彼女がマイケルに捨てられるというかたちになるわけです。それが彼女には最も「都合のよい」結末なんですね。繰り返しますが主人公(の意識)は、まだそのことに気づいていませんから、意識は「もしかすると、マイケルは母に恋してしまうかもしれない。だけどときには、危険をおかさなければいけないときもある」と合理化して辻褄を合わせてしまっているのです。ふられることで、ふられるようにしむけることで、マイケルとの関係の清算を、主人公は無意識裡に図った。そう考えれば、この一見不可解な彼女の行為が、実はまさに合理的合目的な行為であったことが浮かび上がってくるばかりか、この言葉がそこにおかれていること自体が、私の推理の正しさを証明しているように思われます。
 

SFM12月号(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月28日(水)21時53分42秒
返信・引用  編集済
  「アボラ山の歌」を再読。
初読時よりずっと評価が上昇。面白かったけど世界幻想文学大賞を取るような話かな、と思っていたのですが、たしかにこれは世界幻想文学大賞を取るような大変な話でした。訳文の解釈も明快でグッド(^^;

主人公は、54歳なのに27歳のロックスター(ロニー・ウッド?)と浮名を流すような、そんなとんでもない美貌の母親を持つボストンの大学の女子学生(院生)。小説(神話的ファンタジー)を書いており、その小説には、どうやら主人公を取り巻く人間関係が反映されている。
それは母親から(精神的に)自立しボーイフレンドと結婚するという願望を作中人物に託した物語になっており、お話では、主人公(に擬すべき女性)が、仕える皇妃(母親と名前が同じ)から、暇を貰って結婚する許しを得たいというのならば、あなたと同じくらいに私(皇妃)の夜伽ができる人物を見つけてきなさい。そうすれば許す。といわれ、探しに行くという試練譚になっており、そうして見出された人物が、実にコールリッジ(クブラ・カンや老水夫行の)を反映した人物が想定されているのです。彼女は当初コールリッジを知らず、コールリッジの熱烈なファンであるボーイフレンドから教えられ、自分もファンになった経緯があり、それで物語に取り入れたのでしょうか。
現実のコールリッジが、ほとんど作品を完成させることができなかったのは(未完ばかりなのは)、夜毎ファンタジー世界に召喚されて皇妃のために詩を書いていたからだとされます。なるほど。

話は変わって、主人公の父親は、文脈からハイレ・セラシエの側近で、皇帝と共に飛行機で脱出しようとして国境で追撃され命を落としたことになっている。これは史実と異なるが、そういう民間伝説があったのかも(義経北行伝説のような)。革命が1974年であり、主人公が大学で授業助手をしているくらいだから現在、まあ20代半ばか。仮に25としましょう。母親が現在54歳ですから29歳の時の子供となり妥当。革命時15歳とすれば小説の現在は1984年となる。ところで1947年生まれのロンウッドは、この時点37歳のはずで、ずいぶんずれてしまいますが、これは単純に37歳を27歳といい間違ったか、ロニーの27歳は丁度1974年なので、主人公が革命時のロニーの年齢を勘違いしたのです。そうに決まってます(^^ゞ。

話を戻して――
ところが、ここに第3の世界が出現する。主人公はパソコンで執筆中に、ふと気づけば、いつのまにかザナドゥのクブラカンの宮殿におり、同じく(「クブラ・カーン」を)執筆中であったとおぼしいコールリッジと出会ってしまうのです。そこで主人公はコールリッジにダルシマーを弾き聴かせたりするのですが、現実の部屋をノックする音で「こちら」に引き戻されてしまう(コールリッジもまた、ノックを耳にし、「待っていたポーロックよりの客が来た」といって消える)。「こちら」のノックの主はボーイフレンドだった。「あなたたちポーロックからの客人ときたらいつでも邪魔するんだから」という主人公のセリフは他でもなく、コールリッジが「クブラ・カーン」の詩を書いている最中、ポーロックから客人があり、応対して机に戻ってみたら、なんと続きを完全に忘却してしまっており、「クブラ・カーン」もまた未完となったという事実をふまえているわけです。
主人公はボーイフレンドに作家になろうかなとふと洩らす。そしてだしぬけに母親に電話して、ボーイフレンドと一度あってほしいという。ところがそれ以前に、「きみのお母さんに会ってみたいよ」というボーイフレンドに対して、「ぜったいに会わせないわ」と彼女は思っているのです。母親に会ったものは皆母親に恋をしてしまうからなんです。

ところが突然こうなるのは、夢の中でコールリッジに出会ったからではないか。とすればだしぬけの母親への電話の意味は180度変わってしまうのですが……。この一瞬の心変わりをとらえた描写があざやか(^^;

「クブラ・カーン」(1798年作)の最後の方にあるこの部分は、コールリッジが実際に夢の中で1984年のアビシニアンの娘と出会っていた動かぬ証拠なのかも。

   ダルシマーを手にした乙女を
   私はかつて夢の中で見たのだ――
   彼女はアビニシアンの乙女で
   ダルシマーをなで弾きながら
   あのアボラの山を讃えていた。
   今一度私の心の中にあの乙女の調べと歌とを
   よみがえらせることができるなら
   私は深い喜びを感得し、いたみいって
   声高の長い長い調べでもって
   空中楼閣を建てるだろう。
Kubla Khan Samuel Taylor Colerige
 

旧松坂屋

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月28日(水)19時46分48秒
返信・引用  編集済
  日本橋3丁目の高島屋東別館は、10年ほど前、商談で入ったことがあります。昔ながらの、あのドアが開いて檻が開く式のエレベータが健在でした(^^)。現在でもそうなんじゃないですかね。松阪屋時代のをそのまま使っているんでしょうね。

追記>検索したら店舗になっているようですが、10年前は店舗としては使われておらず、照明も落として薄暗くがらん堂でしたけど。
 

SFM12月号(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月27日(火)22時50分8秒
返信・引用  編集済
  なんとなくシオドラ・ゴス「アボラ山の歌」を読んでしまう(^^;
小説内現実界とファンタジー界が重構造になっていて、現実の行動がファンタジー界に反映しちゃう。あ、これがいわゆる<セカイ>系なのか?
長さ的にも適度な複雑さも、仕事の合い間のパスタイムなんかに丁度よい話でした。
 

SFM12月号(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月27日(火)19時08分56秒
返信・引用  編集済
  体調は回復したようだが、目が相変わらず気持ち悪い。頻繁に目薬をさすのですが、さしたときだけ少しましな程度。
SFM12月号は<秋のファンタジイ特集>ということで、まずは冒頭のイアン・R・マクラウド「最後の粉挽き職人の物語」を読む。案外支障なく読めました。しかし読後枚数を数えれば100枚程度の中篇だったのだが、読み終わった瞬間は200枚くらい読んだような読後感。目のせいなのか、初読では作品に乗り切れなかったせいなのか(私にはよくあること)よく判りませんが。
意味の通らない記述が数箇所あり、ラストもよく判らなかったので再読に入る。再読は一気に読めました。再読だからすらすら読めて当然。しかしやはり意味が通らないのは解消されなかった。
そんなところが数箇所あったのだけれども、たとえば32ページ「ネイサンは取引のコツを知っており、老人には安く売る必要などないとわかっていながら、興奮し、気が急くのを抑えられなかった」
このシーンで老人って誰よ。風売り? でも目下やっているのは風売りから安く買うための交渉では?
どなたかご教示いただければうれしいです。

内容自体は悪くない。パヴァーヌをよりケルト化した感じで、原題The Master Miller's Taleですが、主題に即したわがあらまほしき邦題は「バーリッシュ・Mの風の結び手」(>おい(^^ゞ)
守旧派(ギルド派)の秘密結社<未来の人びと>を実質動かしている「都会から来た色白の細面の人々」の正体が(仄めかしはあるが)謎のままで、これはシリーズ長篇を読めば判るんでしょうね。その意味でこれだけでは評価しづらい作品です。

――読書は問題なさそうなので、SFMはとりあえず棚上げして、『所有せざる人々』に戻る予定。
 

定義

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月27日(火)00時19分38秒
返信・引用
  【今日の名セリフ】
少し驚いたのは、「主体がない」=「心がない」としている作品が2作もあったことだ。「七パーセントのテンムー」と「うつろなテレポーター」である。主体が希薄な人は私の周りにもけっこういる。それに対して「主体がない」ことが「心がない」ことだとは全く思ったことがなかったので、同じ発想の作品が同じ年に2作も書かれて収録されていることに驚いた。

なるほど。どんな話だったっけ(汗)。でも定義にもよるのではないかな。どちらも確定した一義的な定義がある概念じゃないからなあ。

今日はだいぶ目がましになったので、リハビリを兼ねて届いたばかりのSFマガジン12月号を読み始める。
 

Re: 会心と追記

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月26日(月)21時26分57秒
返信・引用
  > No.2127[元記事へ]

かんべさん

投稿ありがとうございます。そうなんです。御作に触発されて私の中から出てきたものなんです。
なんですが、どうもそれだけではない気も実はしているんですよね。実際、堀さんのおっしゃったことがやはり当たっているのではないか、と。
でなければ、「原魚ヨネチ」と「三部作」、あまりにもぴったりと符合しすぎるじゃないですか。
近代社会というクライテリオンを導入したのは私のアイデアですが、その結果、この2作がパズルのピースのようにぴったり繋がっていくのを(自分で書きながらこういうのも変ですが)目の当たりにして、私、書きながらゾクゾクして鳥肌が立っていました(実際あの部分、ほとんど自動筆記状態でした)。一種のセンスオブワンダーがありました。
やはりこれ、堀さんがおっしゃるように、かんべさんの「意識」は気づいてなかったのかも知れませんが、意識をしてそれを書かしめたのはかんべさんの「無意識」なのだと思います。両作品ともその底が、かんべさんの内的世界と通底しているからこそ、私に共通性が見えたのですよきっと。単なる私の恣意や嗜好でここまで繋げることはできないように思います。
でも私の中から引き出されたものである感じも依然強くあり、あるいは両方とも正解なのではないか、とも思われます。つまり私の無意識とかんべさんの無意識のうしろに、集合無意識を想定すれば、そういうこともありえるのではないか――あらら、なんか荒巻ロジックみたいになっちゃいました。飛躍しすぎですね(汗)

いずれにしても感想文を書きながらセンスオブワンダーを感じるという、実に稀有な体験をさせていただきました。今後こういうことがまた訪れることがあるのか、あったらいいな、と思わずにいられません。
 

会心と追記

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2009年10月26日(月)17時48分48秒
返信・引用
  当方と堀晃氏とで定員2名の、SFもしくは創作検討会。
以前、そこでかわした会話は以下のごとし。
「ヘリコニアの書評、とりあげられてる他作家他作品のなかには、
そんな大層な小説かなあと思うのもあるけど、
私の原魚ヨネチについて書いてくれたのを読んで、わかりましたわ。
ヨネチにしてもトロッコにしても、そこまで考えて書いてないわけで。
管理人氏は、他者の作品を素材にして、自己の内的世界を表出してはるんですな」
「いやいや。それはしかし、そこまで考えて書いてなくても、
かんべの内的世界が、おのずと出てたわけであって」
「はあん。そんな、ええもんですかなあ」
今回、会心を読んで再納得。追記は、おっしゃる通りなんですな。
 

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