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現在大量に発汗中(室温27℃)。私の場合汗が出たら治りかけの証拠。人間を50年もやってますと身体の自己防衛機能の動向も大体先が読めるようになります。ところで皆さんも経験がおありでしょうが、風邪をひいたり熱が出たりするのは決まって休日か正月か盆なんですよね。不思議ですねえ。人間が《心身体》である証拠ですね。
話が飛びますが、そういう次第で身体から遊離した霊魂は存在が不可能というのがわが信念なんです。たとえ存在するにしても、それがアイデンティティ(私)を保持していたりすることはありえず、事故死などで死んだ場所に執着する類の固着霊にしかならない。
番町皿屋敷がこの例で、明らかに執着霊です。それが証拠に主家が滅んだのに霊は消えません。つまり菊の霊が恨みによって析出されたものではなく、一枚足りないという枚数への執着がそうなさしめたと想像されるわけです。だからこそ「10枚」と先に言ったら「あなうれしや」と消失してしまったのですね。
少なくとも霊として存在している期間が長ければ長いほど、霊そのものはどんどん劣化していくはずであり、その意味で『精霊のクロニクル』の浮遊霊の描写は納得できるものです。
追記。
死んだ学者の脳から重要な知識や記憶を取り出すというSFがありますね。記憶が脳において蓄えられているのだとすれば、これはあながちありえない話ではない。脳は身体の一部です。
だとすれば身体から遊離した霊の「記憶」とは何か? 私はありえないのではないかと思います。たとえば、霊が、霊となってから経験した記憶は一体どこに蓄えられるのでしょう。この点からも霊が「私」を保持することはありないと思う。「私」とは時間内存在(記憶ない存在)なのですから。
したがって霊として残るものがあるとするならば、それは、死んだ瞬間の「一瞬」の気分なのではないでしょうか。タクシーに乗ってくる幽霊が、タクシーに乗って事故にあって亡くなった人の霊だとしますと、死んだ瞬間の状態、「タクシーでどこかへ行こうとしていた」というその気分だけが霊化したものなのではないかと思われます。霊に因果関係を前提とする「目的」はありえないのではないでしょうか。幽霊には時間は流れないと思います。
なおこれは死後身体から遊離するとされる「幽霊」が存在するならばそれはどういう形態のものかついての考察であり、「精霊」はまた別の観念です。
追記。
ではゾンビとは何かとふと思う。
ゾンビとは精神(心)が霊として抜けてしまった残存肉体という位置づけ?
要考察。
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