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「中国怪奇小説集」より

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月17日(火)20時37分18秒
返信・引用 編集済
  > No.7492[元記事へ]

 『中国怪奇小説集』は「 白猿伝・其他(唐)」と、「 録異記(五代)」を読みました。
 前者の「白猿伝」は、この一篇で独立のタイトルになっているだけあって、起承転結がはっきりとあり、物語といっていいように思います。
 酒呑童子は本篇が粉本と書かれています。
 妻を妖怪に攫われた主人公が、捜し求めて高山深く分け入り、妖怪の広壮な屋敷に辿り着く。そこで妻を見つけるが、簡単に妖怪を倒せるわけがない。同じく攫われてきた女たちの助言で食い物や酒を用意する。帰ってきた妖怪はそれを飲食し、酔って眠ってしまう。女たちによって巨人は三本重ねた綵糸で括り付けられる。そこで主人公が、妖怪の唯一の弱点と教えられた臍の下に刀を突き立てると、さしもの不死身の妖怪も死んでしまう。
 酒呑童子の粉本とは著者の解説ですが、この弱点の部分は、「ニーベルンゲンの歌」のジーグフリートの背中や、「サムソンとデリラ」のサムソンの髪の毛や、アキレスのかかとを髣髴とさせますよね。
 私は、「ジャックと豆の木」も思い出しました。ジャックは豆の木をよじ登って雲上の巨人の城に辿り着く。巨人の妻の助言で宝物を地上に持ち帰ります。しかし歌うハープを持ち出そうとしたとき、ハープが喋りだしてしまい、巨人は目を覚ます。そしてジャックを追いかけて豆の木を伝って降りてくるのですが、ジャックが豆の木を切り倒したので、墜落死してしまったのでした。
 構成する具体的な要素は微妙に異なりますが、物語の構造(要素間の関係)は同一といってよい。構成する要素も、神話素としてみた場合、同じ意味を担わされています。
 そういえばオオクニヌシがスセリヒメを連れて逃げ出そうとする場面、眠っているスサノオの髪の毛を柱に結び付けます。しかしスセリヒメの琴の弦が何かに触れ、鳴ってしまい、スサノオは目を覚ましてしまう。しかし髪の毛をほどくのに手間取っている間に二人は黄泉平坂を越えてしまうのでした。
 髪の毛をくくり付ける行為は、「白猿伝」の綵糸でくくりつけるのと同じ構造です(サムソンの髪の毛を「切る」というのも、「括り付ける」と神話的には同構造です)。琴が鳴って起こしてしまうのもやはり、「ジャックと豆の木」でハープが喋りだすのと同一なんです。
 そのような次第で、「白猿伝」の作者は不詳とのことですが、私はむしろ、本篇はもともと神話的に成立したもので、作者というものはいないのではないかと思いました。はるかな過去から語り伝えられてきた神話的物語が、唐代に誰かによって採録されたというのが正しいのではないでしょうか。
 はるかな過去と言えば、今日、なんと偶然にも、こんなニュースが!?
 「ジャックと豆の木」の起源は5千年以上前だった! 童話の起源が大幅に見直される!

 もう一篇、「 録異記(五代)」は唐-宋間の混乱期である五代十国の時代の志怪集。著者によれば、五代は「文芸方面は頗る振わなかった」時代だったようで、当「録異記」は「五代ちゅうでも屈指の作として知られている」とのことですが、私の読んだところ、六朝時代に戻ってしまったような感じで、素材はなかなか面白いのですが、こねくり回し方が単純すぎて、紹介するほどの作品はありませんでした。

 
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月16日(月)22時49分59秒
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         元記事
 

「月と太陽の盤」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月16日(月)20時53分8秒
返信・引用
   宮内悠介『月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿』(光文社、16)読了。

 いやーまいった。技のデパート舞の海(笑)のような連作集でした。
 第一話「青葉の盤」はプロローグ。これはまるで正調中国の怪談志怪小説で、そういうのが大好きな私は、今回はこういう作風なのかなとわくわくしながら、第二話「焔の盤」に着手したのでしたが、その期待は早速裏切られ(^^;、一転、ホンモノとニセモノのすり替えの応酬という一種のコンゲーム。
 あれれ、と戸惑いながら、第三話「花急ぐ榧」。これがまた、なんか中井英夫「とらんぷ譚」みたいな話で、つづく第四話「月と太陽の盤」は140枚の中篇。本集の白眉でしょう。なんとなんと、本格ミステリにしてアンチミステリの傑作!! 見立、前言否定、倒錯(倒立)と全て揃っている。「館」の図面は言うまでもなし(^^; いや、前作に中井を感じたのは我ながら鋭かった、と自己満足したのでした(汗)。但し直近のルーツは竹本健治かもしれません(新本格世代なのかも)。
 第五話「深草少将」、第六話「サンチャゴの浜辺」になると、今度は淡彩画の世界。ストーリーはあるけれどもないに等しい。これは日本の伝統的な文学の手法では。こういうのも好いです。私は大好き。後者はなんとなく小松左京「岬にて」を思い出しました。
 かくのごとく、個々の作品はそれぞれ楽しめたのですが、あまりに多彩(多才)すぎて全体の統一的な印象がなかなか像を結ばなかったのです。
 堀晃さんの評言を読んで、なるほど! と膝を打ちました。
 そうなんです。各自バラバラな筆法で書かれたこの連作集を一つに纏めているのは、「榧の木」という背景なのです。ハードSFの醍醐味は、個々の作中人物の営みではなく、それら前景の後ろに控えて、それらを照らし出す、いわば背景輻射であるところの、(人間の時間を超越する)超時間的な何かなのですよね。
 これは目からウロコでした。私の読みは前景に囚われすぎていて、それが見えていませんでした。堀さんの評を読んだ瞬間、わっと広がりました(SOW)。
 もちろん前景の多彩さは味読してしかるべきです。が、それと同時に、視点を後退させて小説を成り立たせている背景にももっと目を向けるべきでした。
 なかなかユニークな連作集で、堪能しました。

 

銭形平次物語の時代設定変更について・とりあえず最終報告

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月14日(土)11時28分30秒
返信・引用 編集済
  > No.7493[元記事へ]

 野村胡堂『銭形平次捕物控52話~61話』(青空文庫Kindle版)読了。(但し52話、53話、55話、58話、欠)
 タイムスリップの兆候がまだありません。知識がないため見落としている可能性があります。欠話も多いですし。
 ただ、これはどうでしょうか?
「時々出した火の元用心の觸れ書も、實に行屆いたもので、大風の吹く日は外出を禁じ、庇や屋根に水を打たせ、二階に灯を點けさせなかつた時代さへあります」(59話「酒屋火事」)
 前項で紹介したように、「二階に灯を點けさせなかつた」のは万治3年(1660)のこと、すなわち銭形平次のオリジナルな時代設定の範囲内です。
 「二階に灯を點けさせなかつた時代さへあります」という表記は作者の解説ですが、「そういう時代が昔あった。いまはそこまでは言われない」というニュアンスを私は感じさせられます。だとすれば、本篇「酒屋火事」の時代は万治3年よりずっとのちの、そういう規制が解除された時代と考えられなくもないような。乱歩との対談で語っているように、著者はどこかで時代を19世紀前半(文化文政期)に持って行きたかったわけですが、当記述は、そのための伏線として配置されたものなのではないでしょうか。
 もちろん、小説内の著者の解説が、当の小説の時代に即して記述されなければならないいわれはありません。
 引用文の少し前に、「江戸の火事の恐ろしさは、明暦、天明の大火を引合ひに出す迄もありません」
 という文がありますが、この記述は普通に読めば後者の、超時代的な、一般的記述のようにみえます。でもこの文章も、著者の視点が19世紀前半に即したものだとしても解釈できるんですね。明暦大火は1657年、天明の大火は1788年で、どちらも化政期以前ですから、視点を化政期に固定して、その過去の出来事として二つの大火を引用文のように語ることは可能なんですねえ(^^;
 というか、もし最初の引用文を前者の視点で読むならば、二番目の引用文も同様に前者の固定視点で読むべきです。

 さて、当文章はしかし、多分に印象的な、根拠としては薄弱なタイムスリップの証拠でしかありません。もっと確実なものを見つけたいところですが、今回も10篇中4篇が欠だったように、青空文庫への収録が、このあたりになるとまだ整っていません。ひょっとしたら今回の欠録分のなかに確実な証拠が合ったかもしれません。
 というわけで、とりあえず一つ発見したことに満足して、この探求はいったん休止し、青空文庫がもっと完備してから再開したいと思います。ただし忘れていなければですが(>おい)(汗)

 次は宮内悠介『月と太陽の盤』に着手します。


 

「カブールの園」「半地下」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月12日(木)22時42分12秒
返信・引用 編集済
   宮内悠介さんが芥川賞候補になったそうです。私は賞を獲った作品はその直後には読まないことにしているので、あわてて昨日、候補作品「カブールの園」(110枚)が掲載された文學界2016年10月号と、文學界デビュー作品「半地下」(150枚)が掲載された2016年2月号を、図書館で借りてきました(受賞前ならマイ原則に抵触しないのです)(^^;
 昨晩一気に両作品とも読んでしまいました。今日、前者を再読しました。

「カブールの園」の主人公は日系三世の女性。母親は日系二世、父親は日本からやって来た画家。しかし父親は主人公が生まれると母と子を捨てて出ていってしまう。そういうことで主人公は母親に共依存的に囚えられているがそれが自分自身を縛っていることに気づいてもいて、長じて母親を「否認」します。
 もうひとつ主人公を苦しめているのは、幼児期に虐めを受けたことによるトラウマです。
 これらが複合して、主人公は自分に自信が持てず外界に対して防御的な性格になってしまっています。
 主人公は大学で中高では得られなかった尊厳に基づく友情を互いに抱ける友人二人を得る。卒業後、彼らとベンチャービジネスを立ち上げ、それで「母の否認」がようやくできたのですが、「否認」は「否認」で母親との葛藤が消えたわけではない。
 精神的に追い詰められていることに気づいた友人たちに、主人公は二週間の休暇を強制的に取らされる。
 旅に出た主人公は、戦時中、日系人の隔離施設であったマンザナー強制収容所の跡地を訪れる。そこに保管されていたテープには、なんと子供の頃世話になった人の声が残されていた。そんな「意味のある偶然」に引き寄せられるように、主人公は、自分、母、祖母3代にわたるルーツ確認の旅に送り出されるのでした……
 これは素晴らしい作品。ルーツの旅は主人公の心を開く方向に働いたようで、アメリカ人の無意識に根強く残る有色人種差別すら、相対化して利用できるようになります。
 その分水嶺となったのが、主人公に否認された母親が、その主人公の(母親否認の契機となった)大学の学費のために、自分自身が「否認」していた祖母に頭を下げて、折から戦時日系人強制収容の非を認め支払われた補償金を譲ってくれないかと頼みに行ったという構図で、その知によって主人公は寛解したと思うのですが、私も感動しました。

「半地下」は、父親が事業に失敗し、5歳の主人公と姉を連れてニューヨークへ夜逃げしてくる。ところが姉弟を残して父親は蒸発してしまう。姉が主人公を養って働き始める……
 これはまた色彩豊かな物語、いや、神話的作品といいたい。疲れたのであらすじは省略しますが、私は「カブールの園」より本篇のほうが好きかも。
 どちらの作品も、とても楽しめました。

 

岡本俊弥「汽笛」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月11日(水)21時24分45秒
返信・引用 編集済
   岡本俊弥「汽笛」を読みました。
 時は1968年、物語は汽笛一声開始されます。国民学校の建つ高台からは4キロ下の海岸までよく見晴らせる。その傾斜の中ほどに国有鉄道工場があり、そこで建造されている新型蒸気機関車が鳴らした汽笛なのです。その機関車は高さ5m、長さ40m、重さ300tという超弩級。当然従来の狭軌鉄道ではなく、新しく敷設された広軌鉄道を時速200キロで突っ走る。
 つまりこの小説世界は、新幹線ではなく超高速蒸気機関車が走る”もうひとつの時間線”なのです。
 電気は発達していないようで、蒸気機関が主たる動力源。したがって燃料となる木材が大量に必要で、従来の森林は伐採され、代わりに3年で巨木となる品種改良されたアメリカ杉が至る所に植林されています。
 このような世界になったのは、23年前(1945年)3月、奇しくもこの世界の神戸大空襲の日、突如宇宙から現れた宇宙人によって地球が征服されたからなのです……。その日出現したのはまるで蝗の大群のような夥しい宇宙機。それが急降下しては、蜘蛛型歩行機を吐き出し、それが無差別に人類を襲い始めたのでした……

 面白い面白い! この蜘蛛型歩行機、キリキリという音を発して動き回り、私は宇宙戦争のトリポッドを想起しました。しかしその中には運転するエーリアンはいません。どうやら「砂漠の惑星」の昆虫のような存在としてイメージされているようです。ではエーリアンどこにいるのか。どうも宇宙人といったものは存在せず、AIであることが仄めかされるのですね(その意味ではバーサーカーが浮かんできます)。この地球制服は、AIによる宇宙征服の一環なのでしょうか!?
 本篇自体は静謐な物語ですが、雄大な構想のスペースドラマの序章であり、こんご続編が続々と発表されるのかもしれません。楽しみ~(>ホンマか)(^^;

 

「銭形平次42話~51話」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月10日(火)21時41分3秒
返信・引用 編集済
   野村胡堂『銭形平次捕物控42話~51話』(青空文庫Kindle版)を読みました。(但し44話、49話、欠)

 それはさておき。
 元ツイート

 これらから明らかなのは、教養が不足していること(中高で落ちこぼれた?)、社会いや世界と交通していないので常識がないこと(ひきこもり?)、ネトウになるためにはこの二つの条件が必要不可欠ということですねm(__)m。

 

銭形平次物語の時代設定変更について・さらに続報

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 9日(月)21時59分46秒
返信・引用
  > No.7491[元記事へ]

45話「御落胤殺し」
 八五郎が暢気に狸穴坂の菊細工を眺めながら歩いています。「菊細工はまだ麻布の狸穴坂の兩側を本場にした頃、ガラツ八は飯倉へ用事で來た序に、此處まで足を伸して(……)菊を眺めて、返したところを妖かしの網に引つ掛つたのでした。( 註、菊細工の本場は文化以後染井巣鴨に移り、弘化年間に根津、谷中、駒込を中心として精巧な菊人形に進化し、一時中絶して、明治十年頃團子坂の菊人形に復活したのです。)」
 ということで、本篇ではまだ、狸穴坂が菊細工の本場の頃ですから、文化文政以前です。

47話「どんど焼」
 正月早々商家の離れの二階で殺人事件。平次は言う。「殺された若旦那は、宵から二階などへ上がつて居たのか――此節は御觸がやかましくて、町家の二階では灯を點けてはならぬことになつて居る筈だが――」
 というのは他でもありません。
「萬治三年は正月から大火があつて、湯島から小網町まで燒き拂ひ、二月は人心不安の爲將軍日光社參延引を令し、六月には大阪に雷震、火藥庫が爆發し、到頭江戸町家の二階で紙燭、油火、蠟燭を禁じたのです」
 つまり本篇の時代は、萬治三年の翌年、即ち萬治四年以降のいずれかの年の正月のお話ということになるわけですが(萬治四年は1661年。ただし4月25日に寛文に改元される)、先回記しましたように、38話「一枚の文銭」は寛文4年で確定していますから、当の47話「どんど焼」の時代設定は寛文5年あるいはそれ以降のある年の正月のお話となります。(但し当シリーズが木枯し紋次郎シリーズなどと同様、時系列を追って物語られているのであれば、ですが)

 いずれにせよ、少なくとも第47話までの物語は、家光・家綱の時代、17世紀前半から中頃にかけての時期が舞台であり、それで替りないことが判明しました。
 それにしても「30話」なんて云うのが流布しているのは何なんでしょうね。どんな間違い・勘違いが介在したものか、興味深いです。というか、だれもトレースして確かめてみなかったんでしょうか。

 
 

「中国怪奇小説集」より

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 8日(日)23時01分47秒
返信・引用
  > No.7490[元記事へ]

 「宣室志(唐)」を読みました。
李生の罪
 巡察の吏が役目でやってくる。狷介な人物らしいので、迂闊な者を侍らせて粗相があってはと、太守自ら一人で相手をしていたが、さすがに間が持たなくなってくる。吏も相客を望んだので、この者なら大丈夫という男を呼んだ。召出した男を一目見るなり吏はみるみる不機嫌になる。男の方も蒼褪めている。と、吏が「あいつを縛って獄屋につなげ」。引っ立てられていってしまうとまた機嫌がなおり無事酒宴は終わった。
 太守はほっとすると同時に不思議に思い、獄中に人を遣わして理由を尋ねると、「私は昔は放蕩無頼で、27年前、満載した馬を引いてやってくる10歳位の少年を崖から突き落とし、馬も荷物も自分のものにしたことがありました。それを元手に金儲けしたので悪行からきっぱり足を洗い、読書に努めた結果、今の地位に付きました。今日宴席に出仕し吏の顔を見たら、昔殺したその少年にそっくりで驚きました。これぞ因果応報、吏に殺されるのは当然で覚悟しております」
 吏が酔からさめ、すぐに男の首をもってこいとのこと。命乞いするすべもなく首を落として吏に渡すと、快げに笑っている。
 一体どういう理由でご機嫌を損ねたのかと聞くと、「いや別に罪はない。これまで会ったこともない。ただ顔を見たらなんだか無闇に憎らしくて殺す気になった。理由は自分でもわからない」。
 太守が吏に歳を聞くと、恰も37歳とのことであった。

 

銭形平次物語の時代設定変更について・続報

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 8日(日)13時50分59秒
返信・引用 編集済
  > No.7489[元記事へ]

 野村胡堂『銭形平次捕物控32話~41話』(青空文庫Kindle版)読了。(但し36話、欠)

 前回、長尺化で密度が減じたように感じると書きましたが、その傾向は今回も続いており、どうもそれは必ずしも長尺化のせいというわけではなく、筆法のせいであることがだんだん分かってきました。
 作者が地の文で説明して描写を省く傾向が出てきたのです。それが作品を一種の「あらすじ」みたいに読者に感じさせてしまうのです。小説は作中人物なり世界なりに読者を同一化するものなのですが、あらすじはそうではなく、外的に俯瞰する態度からなされるものなので、動的なドラマ性が幾分薄まってしまうのです。
 で、ああ遂にマンネリ化したか作者は定型に当てはめて書き出したかと、ちょっと読み続ける意欲を失ったのですが、しかしまあ、「タイムスリップ」の時期を確定したいという欲求もあって読み続けることにした。
 すると、30話台も中段に入って突如密度が復活。以前よりもより小説として面白くなってきました。ミステリ風味も格段に近代化されて、少なくとも乱歩の通俗長篇程度のレベルにはなっています。
 前回紹介した乱歩との対談で「そうだね。むかしは大衆小説風に書いたね。チャンバラ式にだ。それからだんだんコナン・ドイル風になってきた」という言葉と対応するのかと思います。もっともこの対談はシリーズ開始から21年後のもので、30番代中盤とは3年目にかかるあたりなので、胡堂が私の感じたあたりを念頭に置いた発言なのかどうかはわかりません。

 ところで、「タイムスリップ」問題(承前)ですが、38話「一枚の文銭」にこんな文章が。
「寛文2年というと、ツイ一昨年の春、この瓶を埋めた先代総七郎が死んでから三月も後のことです」
 つまりこの話の時間設定は寛文4年ということになります。
 寛文は1661~72。家光の次、4代家綱の治世です。その4年は西暦1664年ですから、少なくともこの38話までは、「タイムスリップ」は起こっていないことになるでしょう。
 ということで、ウィキペディアの記述は(その出典の『時代劇解体新書』の記述も)間違いであることが明らかになりました(^^;

 

「中国怪奇小説集」より

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 7日(土)19時27分48秒
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  > No.7487[元記事へ]

「酉陽雑爼(唐)」を読みました。唐代になると、小説も洗練されてきますね。「捜神記」について、落とし噺という言葉を使いましたが、たまたま直前に読んだのがそんな感じで、それに引っ張られてしまった。実際はナイーブな、小説としてのひねりはあんまりないものが多かった。むしろ創作という意識より「こういう不思議な事実があった」という書き方なんですね(もちろんそれだからダメとは思わないです。逆にストーリーの因果的定石をはずすことで不安な感じが醸成されていてよい場合もありました。意図的かどうかは違うと思いますが)
 一方本書になると、ひねりは意図的で、唐代の作家はいうまでもなく六朝の志怪を読んで育ってきたと思うわけですが、それへのリスペクトを保ちつつも、自分ならこう書くという一種反省的視点を獲得していたことで、創作技術が進歩したのだろうと想像されます。
 それがいいことかというと、そうともいえない。たとえば第一話「古塚の怪異」は、結局のところ墓あばきは罰を受けるという倫理道徳譚になっていて、唐代の怪談は因果応報という意味で、現代の大衆小説的な方向に向かっている(という面もある)んですね。その点では六朝の志怪は純文学的といえるかも。
「刺青」
 ある町で何度も獄屋に入れられる乱暴者がいた。しかしその背中に彫られた毘沙門天を憚って獄吏はよう杖を当てられない。それをいいことにますます暴れまわる。ついに堪忍袋の尾を切らした役人が筋金入りの杖で撃ち据えるが死ななかったので無事釈放される。暫くして件の男が役所に乗り込んでくる。「ごらんなさい。あなた方のおかげで毘沙門天の御尊像が傷だらけになってしまいました。その修繕をしますから、相当の御寄進をねがいます」
「人面瘡」
 二の腕に人面のような腫物ができる。別に痛くない。戯れに腫物の口に酒を注ぐと飲んでしまい、酔ったように赤くなった。食い物を与えると何でも食った。食いすぎると腕が腹のように膨れた。それを聞いた名医が、あらゆる薬や草木も食わせてみろと言うので、食わせたら、唯一つ貝母という草だけは口を閉じて食おうとしなかった。「それだ!」と手を打って名医は、管で腫物の口をこじあけ、貝母の汁を注ぎ込むと、数日にして腫物は小さくなって癒った。

 

銭形平次物語の時代設定変更について

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 7日(土)17時34分21秒
返信・引用
  > No.7488[元記事へ]

 承前。前回、銭形平次の物語の時代設定が、途中で寛永から化政期に移行されているとのウィキペディアの記述を紹介しました。
 ここから移行になったという30話を読んだ限りでは(31話も読みましたが)、私にはその「移行を示す証拠」を見出すことはできませんでした。私にそれを見分ける知識がないからだと思いますが、もしかしたら「30話」というのが、ウィキペディアの勘違い乃至誤記の可能性はないのだろうか、と思いつきました。
 幸い、ウィキペディアはその根拠として『時代劇解体新書!』(メディアファクトリー)を参考文献に挙げています。
 ということで、図書館に行って調べてみました。
『時代劇解体新書!』というのは、ムック本でした。《ノスタルジックTVグラフ》というシリーズの第3巻で、1993年刊。
 銭形平次の項目に、「時代設定」としてこう書かれていました。
「原作では平次は最初、投げ銭として寛永通宝を投げ、将軍家光の寛永(1624-44)から、家綱の治世である承応(1652-55)あたりで活躍していたが、原作の第30話ぐらいからは、文化文政(1804-30)の頃が舞台に。野村胡堂によると、この頃の文化、風俗が、最も書きやすいためとか」(36p)
 平次の項目には10頁費やされていますが、時代設定移行については、上引用部分のみでした。
 せっかく図書館まで出かけましたが、30話あたりで移行というウィキペディアの記述が誤記でないことは分りましたけれども、「移行を示す証拠」に就いては、何も分かりませんねえ(ーー;

 

「銭形平次捕物控21話~31話」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 6日(金)21時20分24秒
返信・引用 編集済
  > No.7485[元記事へ]

 野村胡堂『銭形平次捕物控21話~31話』(青空文庫Kindle版)読了。(但し21話、26話、29話は欠。青空文庫未収録)
 先回、どうも最初の頃に比べて話が長くなっているような気がすると書きました。31話を読んだとき、これはちょっと長すぎるな、と思ったので、あらためて第1話と31話の長さを実際に計算してみました。第1話は27枚で、第31話は55枚でした。ほぼ1.5倍。
 この31話がおそらく1~31話の中では最長だと思います。これはさすがに途中でダレました。かといって第1話からの数話は、短すぎて話が一直線に結末に達していて、後の作品を読んだ眼で見返せば、いささか不満。やはり40枚台あたりが、ストーリーも適度に複雑で、且つ平次と八五郎との落語のようなやりとりにもそこそこスペースが割けて、このシリーズにはちょうどよい長さのような気がします。
 ところで、ウィキペディアによれば、当初、寛永期(家光の時代。17C前半)が舞台だったのが(第3話には家光が登場)、第30話から化政期(家斉の時代。19C前半)に舞台が移行していると書かれているのですが※、私が第30話を読んだ限りでは、それはわかりませんでした。細かい設定で、分かる人には分かるのでしょうか(たとえば寛永期にはなくて化政期にはあった制度が30話に出てきているとか)。
※胡堂と乱歩の対談「探偵小説このごろ」(青空文庫)で、「平次もはじめは元禄時代にして書いたんだがね。次第に書きにくくなって、今は化政度[ママ]のつもりで書いている」と語っているので、どこかで切り替わっているのは間違いないのですが……

 

「中国怪奇小説集」より

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 5日(木)21時26分14秒
返信・引用 編集済
  > No.7486[元記事へ]

 「捜神後記(六朝)」を読みました。「捜神記」の後編というべきもので、東晋の詩人陶淵明の撰と言われていますが、それは疑わしいと本篇に書かれています。ちなみに「捜神記」は東晋の干宝の作。干宝は彼の父にまつわる神秘体験によって「捜神記」述作を志したのですが、ということやその神秘体験そのものは、こっちの「捜神後記」に収録されています(「干宝の父」)。
 印象ですが、全体に南方・水辺を舞台にした話(蛇、蛟etc)が多いように思いました。振り返って思い出せば「捜神記」もそうだったような。そういえば陶淵明は言うまでもなく江南の人ですし、干宝も生まれは河南省のようですが呉に関係が深く、父は江蘇省の長江南岸の丹楊の県丞だった(wikipedia)。上述の神秘体験も丹陽での出来事であったと推定できます。編者と目される二人が、いずれも江南にゆかりがあるのですから、編纂された志怪小説に南方系のものが多いのも、ある意味頷けますねえ。

 

「中国怪奇小説集」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 4日(水)23時39分50秒
返信・引用 編集済
   青空文庫に分割して収められた岡本綺堂『中国怪奇小説集』より、第3部「捜神記(六朝)」を読みました。
 ちなみに第1部は「凡例」、第2部は「開会の辞」。
「開会の辞」とはどういうことかといいますと、この『中国怪奇小説集』の趣向が、中国の怪談を、15人の語り手が手分けして、それぞれ時代別に担当して、かの青蛙堂に集合した者たちの前で語るという、一種百物語形式になっていて、その開催にあたっての、主催者(つまり青蛙堂主人)のひとこと――というわけです。
 で結局、そういう趣向にのせて、著者が企図したのは、中国の志怪怪談小説のその基本的なところは、本書を読めば大体押さえることができるという、中国怪談入門書なのですね。
 その意味では岩波文庫の『唐宋伝奇集』と重なるのですが、『唐宋伝奇集』がその名のとおり、唐宋限定であるのに対し、本書は六朝から前清までカバーしていることです。
 当第3部は(事実上の第1部ですが)、六朝時代の怪談集成。日本では卑弥呼の時代から倭の五王時代を含む六朝時代のことですから、収録作品もナイーブな、短い話が多い。しかしその分、ショートショート的な味わいもあります。というか落とし噺ですね。
 たとえば、兄弟が野良仕事をしていると、父親があらわれてとんでもない暴力を振るい始めたので、慌てて家に逃げ帰ったら、父親は家に居た。父親は「それは妖怪に違いない。今度あらわれたらぶっ殺せ」。次の日、兄弟が仕事に出かけた後、気になった父親が様子見に出掛ける。それを見つけた兄弟によって殺されてしまう。兄弟は家に帰って、部屋に居た父親に仔細を報告する、という話は、ちょっとディックみたいです。
「羽衣」という、日本の羽衣伝説の元ネタも採録されています。
 なお、『唐宋伝奇集』の冒頭作「白い猿の妖怪」と本書第5部の「白猿伝」を読み比べてみましたが、まあほぼ同じと言ってよさそう。つまり綺堂はいうまでもなく小説家ですが、そのサガで原典を膨らませたりしていないということが、それで言えるように思います。むしろ『唐宋伝奇集』が膨大すぎる註のせいで、読むリズムが失われてしまうのですが、それがない分純粋に怪談を楽しめます。
 ということで、順々に読んでいこうと思います。

 

「銭形平次捕物控13話~20話」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 3日(火)22時24分45秒
返信・引用 編集済
   野村胡堂『銭形平次捕物控 13話~20話』(青空文庫Kindle版)読了。
 どうも一話の長さが12話までと比べてすこし長くなっているような。ただし電子本なので各話の頁数がわかりません。私の感覚です。この感覚が正しいとしたら、それはやはりストーリーが複雑になっているからでしょう。
 今回も12話、第24話まで読もうと思っていたのですが、濃さが違います、20話でお腹いっぱいになってしまいました。
 その意味では、シリーズ全作品読破というような目的がないのなら、13話あたりから読み始めたほうがいいかもしれません。13話からはお静も平次の女房として常時登場しています。

 ところで、一話読み終われば、次の一話をダウンロードするという風に読んできたのですが、それで一つ不思議なものを見つけてしまいました。
 これです。青空文庫をそのままオン・デマンド本にしたものと思われます。オン・デマンドですから一冊から製作できます。値段は540円。いっておきますが、このシリーズの一篇の長さは、せいぜい20頁から30頁。リンク先の第一話は、大体の見当で40枚弱、25、6頁といったところでしょう。ですから、ペーパーバックと謳っていますが、おそらく中綴じの、冊子に毛が生えたようなぺらぺらの本でしょう。それに540円も取るとは。まさにボッタクリ以外の何物でもありません。だいたい青空文庫で無料で読めるものなのです。
 こんなのだれが買うのかと思いますが、売れ筋ランキングを見たら順位が出ているではないですか。つまり最低1冊は売れているのです。
 古書店のボッタクリ売価も大概ですが、初心者を食い物にする新手の詐欺といっても過言ではないのじゃないでしょうか。いやまあ、ひでー話です。

 

Re: 2016年読了書

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 3日(火)17時36分47秒
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  > No.7483[元記事へ]

 和田さん 雫石さん
 あけましておめでとうございます。年賀状ありがとうございました。私はまだ作れていません(>おい)。なんかめんどくさくなって、今年は出さないかもしれませんm(__)m

 和田さん
 意外に長期入院になりましたね。しかしポジティブに捉えて、読書と創作に励んで下さいませ(^^;
>病院の環境に慣れてしまったからでしょうね。
 そういうのはありますよね。私も何か書きたいなと思っているのですが、PCの前に座っても、何も浮かんできません。というか、書き方がわからなくなってしまいました。
 で、はっと思い到ったのですが、もしかしたら初手からワープロで書こうというのが間違っているのかも。アイデアをストーリー化する段階では、昔のように、紙と鉛筆でこねくり回さなければいけないのかも。和田さんのように作り慣れてきたらそうではないのかもしれませんが、今まで書いてなかった者が突如ワープロの前に座っても、それはムリですねえ。

 雫石さん
>私は明日から入院です
 雫石さんの場合は数日の入院でしたよね。つつがなくご退院されることをお祈りしております。まあメスを入れる手術ではないとのことなので、安心しております(^^)
 入院記、楽しみにしております(^^ゞ

 

Re: 2016年読了書

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2017年 1月 3日(火)16時58分32秒
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  > No.7482[元記事へ]

あけましておめでとうございます。
私は明日から入院です。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: 2016年読了書

 投稿者:和田宜久  投稿日:2017年 1月 3日(火)16時38分6秒
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  > No.7479[元記事へ]

あけましておめでとうございます。入院生活はもう少し続きます。
いやあ、入院も慣れてくるとなかなかいいものです。入院中に読んだ本が55冊ぐらい。書いたショートショートが25本(年末に書いた超短編12本を入れずに)ぐらいかな。
正月は一時帰宅してましたが、書こうという気が起きませんでした。病院の環境に慣れてしまったからでしょうね。
 

「銭形平次捕物控1話~12話」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 3日(火)00時07分13秒
返信・引用 編集済
   野村胡堂の『銭形平次』シリーズを、青空文庫のKindle版で、第1話から12話まで読みました。
 当シリーズは、オール読物創刊号(1931(昭和6)年4月号)に第一話が載り、1957(昭和32)年まで、長短併せて総計383篇が執筆されたそうです。のちには新聞連載や他の文芸誌にも掲載されたようですが、オール読物には、少なくとも53年9月号まで掲載が続けられたようですね(青空文庫への掲載がまだ途中のため、確認不可)。
 ということで、私が読んだのはそのほんの3パーセント。オール読物1931年4月号~32年3月号掲載分の12篇ということになります。
 いや、推理ものとすれば他愛ない話ではあるのですが、意外に面白く、最初は5篇でやめておくつもりだったのが、5篇読み終わったら、まあ10篇まで読もうかと、10篇まで来たら、せめて1年分12篇まで、と、ズルズル読んでしまいました。
 つい読んでしまうと言えば、江戸川乱歩がそうですよね。そういえば、文章の講談調なところや、お話が渋滞せずポンポンと飛ぶように進んでいくところなど、乱歩の通俗長篇のタッチによく似ています(年齢は乱歩より12歳歳上)。
 最初の数話は飛ぶように進んでいくにしても、はっきり言って一直線だったのが、回数を追うごとにそれなりに世界が深まっていくのは、捕物小説に筆が慣れてきたのとガラッ八との漫才めいたやり取りとか、シリーズとしての世界観が固まってきたからでしょう。実はガラッ八も、最初からではなく、第3話から登場するのです。のちに女房となるお静は、この12話のうちまだ3回しか登場しませんし、三回目(第10話)でようやく結婚式を挙げるも、その後も一緒に暮らしている場面はありません。有名な「親分大変だ!」「なんだ騒々しい」という定型が定まるのも、ようやく9話あたりから。
 ですからこの12話は、シリーズとしてまだ完全には固まっていないと言えそう。
 しかし、ストーリーは今日的見地からすれば他愛ないにしても、江戸の風俗などはきっちりと詳しく書き込まれていて、毎月連載されているのにマンネリにならないのが凄い。著者の博識の賜物でしょう。
 一応、野村胡堂『銭形平次捕物控1話~12話』(青空文庫Kindle版)読了とカウントしておきます。
 

アニメ「銀河鉄道の夜」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 1日(日)22時22分16秒
返信・引用 編集済
   アニメ「銀河鉄道の夜」(85)を観ました。
 非常にきれいな映像で、むしろこの映像に合わせて原作が採用されたかのような印象すら受けました。映像はきれいなのですが、銀河鉄道の旅の前半は、全体を把握していないので、エピソードがそれこそ車窓の風景のように流れていってしまうばかりのように感じられて、ちょっとコックリしてしまいました。(旅の後半はエピソードが積み上がっていく形となって、何を暗示しているのかようやく分かってきて、眠気は退散しました)
 私は原作を一度読んでいますが、なにぶん何十年も前のこととてストーリーは忘れていました。ただアニメを見ていたらところどころシーンは甦ってきましたけれども。ですからアニメを見終わってようやく、なるほどストーリーはカムパネルラがジョバンニに別れを告げに来るという設定の話だったのかと知った次第。
 ではアニメは、原作をどれ位反映しているのだろうか、と気になってきて、観終わった後、(持っている新潮文庫版は仕舞い込んでしまっていてなかなか出せないので)青空文庫で読み返してみたのでした。眉村さん絡みで、宮沢賢治体系的に読む必要を感じていたので、渡りに舟でした。
 ストーリーはほぼ同じでした。やはり旅の前半は平板な印象だったので、アニメは原作に忠実なストーリーになっていることがわかった。もう少し短くできるのではないかという気もしますが、やはり旅の長さはあれくらいないと、ラストが効いてこないのかも。
 と、書いている間にも、読後感はどんどん良くなってきており、たぶん続けて再読すればもっと良くなってくるはずで、やはり代表的な名作なのだろうと、あらためて思ったのでした(^^;
 

Re: 2016年読了書

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 1日(日)17時32分16秒
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  > No.7478[元記事へ]

 あ、いまふと思い出しましたが、去年『20億の針』を読んだのでした(汗)。ですから小説(海外)1冊、総計65冊(58冊)となりますね。


 

2016年読了書

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 1日(日)17時26分7秒
返信・引用 編集済
   昨年中に読了した書籍は以下のとおりで、計64冊でした。ただし『科学と哲学に関するつぶやき』全8巻を1冊とみなしますと(ボリューム的にはそのほうが妥当)、57冊となり、ほぼ例年どおりとなりますので、やはり一冊としてカウントすべきでしょう。

 あと、これは自分でも意外でしたが、今年は海外小説を一冊も読まなかったみたいですね。でもよく考えたらそんなに意外でもなくて、海外小説と言えばわたし的には海外SFと同義になるわけですが、SF文庫のカバーイラストが興味をなくさせていたようです(たまに、これええやんと思うカバーは大抵既読書の復刊再刊)。まあ内容もカバーに準じているんでしょうから、そもそも興味を惹かれるものではなかったということですね。※
[※私の偏見というだけではない証拠に、この方の感想でも「勧めません」の印はほぼすべてハヤカワSF文庫]

追記。あ、いまふと思い出しましたが、去年『20億の針』を読んだのでした(汗)。ですから小説(海外)1冊、総計65冊(58冊)となりますね。

 

「ALWAYS続・三丁目の夕日」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月 1日(日)05時06分43秒
返信・引用 編集済
   新年最初のDVDは「ALWAYS続・三丁目の夕日」(07)を観ました。
 舞台は昭和34年(1959)の東京。前年のクリスマスに営業開始した東京タワーが、つねに画面のバックに聳え立っています。今では高層ビル群に囲まれて山手線からも殆んど望むことはできなくなってしまいましたが、その頃は他に並び立つ高い建物はなく、この映像を信じれば、まさにただひとりという感じで上空に伸びていたのですねえ。
 前作にひきつづき、CGを上手に使って昭和30年代を表現していましたが、この続編は案外CGの動きがカクカクしていることに気づきました。9年前の作品ということで、CG技術がまだ進んでなかったんでしょうか。しかし前作では殆ど気にならなかったんですが……。
 『東京ゲリラ戦線』は68年頃が作品の舞台でした。本篇はそれより10年ほど前に当たります。もはや戦後ではないと言われたのが昭和31年ですが、その3年後である本篇の世界には、なお戦後がそこかしこに残っていて、戦友会に出かけた堤真一が戦死した戦友(部下?)の幻像を見たり、薬師丸ひろ子はシベリアから5年前に帰国したの昔のBFと偶然出会ったり、六子の同級生は復員兵の装束で詐欺を働きます。
 この時期、山村工作隊はすでになく、というか、小松さんが書いているとおり、山村工作隊はそんな武闘組織ではなかった。独立遊撃隊というのが山村工作隊と混同されたとのネット記事を読みましたが、労働運動や学生運動はずっと盛んだった。
 その一方で、本篇の町内のような、地縁的社会がまだ機能していた。それが良くも悪くも崩壊していくのは70年代になってからで、その意味では『東京ゲリラ戦線』的なのと『三丁目の夕日』的なのが併存していたのが、1960年代だったのかもしれません。
 偶然ですが、その両面をそれぞれ描く創作物を、つづけて読み視聴したわけで、ちょっとしたステレオグラム効果を味わうことが出来ました。

 

「犬神家の一族」(76)を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月31日(土)22時49分40秒
返信・引用
   映画「犬神家の一族」(76年版)を観ました。いま見ると、いろいろ無理がありますね。
 ところで、最後に松子が毒薬を混ぜたタバコを準備しているところ、金田一がチラッと見て目をそらす場面が一瞬挿入されます。これは自殺するのを黙認したことを示す演出で、解釈ですよね(だから大仰に「しまった」と叫ぶのは金田一の演技)。
 というのは、同じく市川崑・石坂浩二で撮られた「犬神家の一族」2006年度版のウィキペディアに、「金田一により一同の前で真犯人が明らかにされた後、真犯人の取る行動は旧作、本作とも同様である。しかし、その行動に対する金田一の対応は、旧作と本作とでは大幅に異なっている。一見すると金田一の行動に違いは見受けられないが、金田一の視線の演技が異なるため、旧作と本作とでは意味が全く異なる」と記されているのを見かけたからです。
 気になったので、調べていたところ、ユーチューブに2006年度版そのものがアップされているではないですか(というか76年版もアップされていた。あちゃー)。
 それで、そのシーンだけ確認してみました。
 私は旧版も新版も同じ解釈に見えました。ただし新版は、よりわざとらしく演出されています。
「大幅に異なっている」とウィキペディアが書く根拠は、石坂浩二の『金田一です。』なのですが、本人がそう語っているのならそうなんでしょう。そうなんでしょうとはどうなんでしょうか。気になります(^^ゞ

 

「東京ゲリラ戦線」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月31日(土)15時50分41秒
返信・引用 編集済
  > No.7474[元記事へ]

 藤本泉『東京ゲリラ戦線』(アドレナライズ16、初刊68)読了。

 註。ネタバレしますのであらかじめご注意。
「日常生活を変えない範囲でレジスタンスしよう」。三人のナンチャッテシンパの女子大生が立川基地の端っこのフェンスに仕掛けた蚊取り線香を利用したチャチな時限爆弾が爆発。それなりに満足するはずだった。ところが、偶然その瞬間に米軍の有力将校の車が通りかかり、死亡。三人は青ざめ、事件を知った二人は郷里へ逃げ帰る。残った一人が偶々その行為で知合った活動家に引き寄せられるように、ゲリラのアジトへ。そこは横田と立川の間の、中央区ほどの面積に広がる「立横カスバ」だった。
 「立横カスバ」とは、基地拡張で土地を取り上げられそうになった地主が、その前に細かく土地を小分けし安価で売却(折からの東京人口膨張に対応)することで強制執行を不可能化した土地に、さらに不法居住者や何やらが住み着いた、スラム地区です(カスバは滓場)。
 米軍の意を受けた警察の捜査は執拗極まるが犯人は見つからず、そのうちこれを機にカスバそのものを一挙に潰してしまおうという意見が自衛隊に起き、自衛隊がしゃしゃり出てくる。
 自衛隊員が扮したデモ隊が大騒ぎし、そこへ移動中の戦車部隊が遭遇、偶発的に争いが起こり、カスバに流れ弾が飛び、火災が発生するというシナリオ。
 ところがそれはゲリラ軍に筒抜けで、逆に奇襲をしかけ、成果を上げ、籠城する。
 籠城後は、まあ秀吉の高松城や三木城と同じで内部の軋轢が描かれるのですが、ここからは主人公の女子大生の、自分の行動が自立的な革命的なものなのか、単にゲリラ指導者への個人的な恋情なのかと悩む話になっていくのは(結局三角関係の構図)、女性の自立は著者の主テーマであるので致し方ないのですが、ひょっとしてこの関係からゲリラは崩壊していくのかも、と嫌な予感がしていたのでした。
 ところが……!?

 おお、なんとSFになってしまいました(^^;
 226事件が成功したような状況となり、それがおかげでアジトへの総攻撃は腰砕けとなる。つまりゲリラ側は更に強力化し、一方日本は青年将校たちの「皇国」となる。かかる二極分化の状況の成立で話は終わるので、なんか物語自体はこれから始まるような雰囲気。そうなると別の時間線の長大な物語になっちゃうんですが、読みたいです。まあこういう終わり方は著者には案外多いので、そもそもそんな構想はなかったんでしょうけど。
 60年代後半当時の、時代の雰囲気を追体験できる逸品でした。


 

「東京ゲリラ戦線」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月30日(金)22時00分50秒
返信・引用 編集済
  『東京ゲリラ戦線』に着手。先般電書化され、ようやく読むことができました。電子書籍、本当にありがたいです。
 Kindle本で52%まで。一気に読んだ。否、読まされました。
 本書は1968年に刊行された長篇小説。1968年といえばパリ5月革命の年。学生運動が頂点に達した年で、当時の学生や労働者の(全部とはいいませんが)考えの座標原点が、熱気あふれる気分とともに(もちろん設定は虚構ですが)リアリティゆたかに捉えられているように思います。
 リアリティゆたかと書きましたが、さあ、今の若い人が読んでもそう感じられるのか、むしろ非現実なファンタジーと感じるかもしれませんね(笑)
 藤本泉の長篇小説は、本書で全部読んでしまうのだが、この小説が一番好きかも。

 

「大きな鳥にさらわれないよう」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月29日(木)18時59分9秒
返信・引用 編集済
   川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社、16)読了。

 著者の初読みであることは先回記しました。ネットで、著者が初めて書いたSFとの紹介を目にして、読みたいというモチベーションがむくむくわき起こって来たのでした。たしかに本書は、まさに、紛うかたない、「いわゆる」SFでしたね。オールタイム級の傑作かも。面白かった!
 感想をネットで検索してみますと、ル=グインとか、ヴォクトのスランを想起された意見が見つかりましたが、私はシマックが浮かんできました(特に雰囲気)。中盤ではコードウェイナー・スミスもちょろっと感じられた。
 でも、読み終わって最後はやはりシマックでした。この静謐な感動は。
 終章で、滅亡した人類とはまったく別種の(ネズミの細胞から発生させられた)新人類が文明を築き上げていく姿が描かれますが、これも『都市』の終章を髣髴とさせられます。「気配」なんてのも、シマック的ですよね。
 とはいえ、だからといって本篇がシマックの亜流だといいたいわけではありません。本書の小説世界は、そんなパスティーシュ的なものではなく、確固たる自立的な小説世界です。ただ、著者とシマックは、体質的に通ずる所があるのではないでしょうか。その結果だと思います。いやまあ初読みでそこまで言うのは言いすぎでしょうね(^^;
 とにかく、海外の有名作家の名や作品を並べて挙げたくなる。後述の新人類の発生はミクロコスモステーマが敷衍されているわけで、要するに著者のSF体験が本書の小説世界を構成する諸要素に(意識的か無意識的かは分かりませんが)ふんだんに反映されているということなのかも。
 そういえば人類滅亡後(或いは去った後)、人間が作り出した新人類が擬似的な社会を営んでいるというと、北野勇作の「ヒトデナシ」ですが、本書の「ニセ人間」も小説世界の構造論的には同じポジションといえるのではないでしょうか。
 うむ。そうだとすればニセ人間の世界は、ヒトデナシの世界の何本か隣の並行世界なのかも、という気がしてきました(^^;


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月28日(水)22時09分37秒
返信・引用
   
 《まずコンピュータは文章が読めないんです。つまり、今回コンピュータが小説を出力するんだけど、その
 内容をコンピュータは全然わかってない》
 《だから「コンピュータが書いた」とか擬人化するのは本当はよくない。コンピュータが意識や自由意思を
 持つかのような幻想を人間に抱かせてしまう》




 『大きな鳥にさらわれないよう』は150頁まで。半分弱。面白い。川上弘美を読むのは、実は初めて。厳密にはNW-SFに載った山田弘美や小川項名義の作品以来。35年ぶり?(^^;

 

ハイカラ神戸展京都編

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月27日(火)18時54分7秒
返信・引用 編集済
   風の翼に、「ハイカラ神戸ミニフェア」の記事がアップされています。たしかに「ミニフェア」ですね(^^;
 それにしても解せぬのは、恵文社のHPにも、ツイッターにも、当フェアの案内が出ないことです。せっかく場所を取って開催しているのにね。告知すれば近所の一人や二人は訪れてくれるかもしれんではないですか。
 なんか釈然としませんね。
 ひょっとして、京都人特有のイケズなエスノセントリズムで、神戸の宣伝なんかしてやるものか、と思っているのでしょうか。
 あ、それだったら納得です(>おい)m(__)m

 『大きな鳥にさらわれないよう』に着手。

 

「アメリカ最後の実験」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月26日(月)21時38分22秒
返信・引用 編集済
   宮内悠介『アメリカ最後の実験』(新潮社、16)読了。

 実質的に読み始めたのが昨日で、冒頭からあまりの面白さに、どんどん活字を追いかける速度が上がっていくので(筋を追いかけてしまうので)、夕方、これはいかんと100頁あたりでとりあえず緊急停止したのですが、夜また、結局2時頃まで布団のなかで読みつづけ、残り30頁で頭が働かなくなって寝てしまいましたが、朝目覚めて読みきりました。
 面白かった。音楽SFです。
 参考文献が半端ではなく、当初これは知識で書き上げたものかと思ったのでしたが、いやいや、読めば一目瞭然、著者は楽器をやっていたか、もしかしたらバンドを組んでいたこともあるのではないでしょうか。そんな体験性からしか出てこないリアルな描写があって、半ば共感しながら読みました。まあ私自身の体験性など屁のようなものですが(汗)
 ブルーノートの半音下げについての会話で、ブルーノートのフラットは半音(ピアノが発音する12平均律)より少し高いところで発音される(だからピアノでは不可能)というのは知らなかったし、そもそも聴き取れていません(ーー;
(※ギターでチョーキングする際、近い感覚で半音まで上げなかったりはしていたかもしれません)
 ドの♯はレの♭ではないというのも(私にすれば)センス・オブ・ワンダーでした。これは知識なのかもしれませんが、こんな会話がなされていると、恐れ入ってしまいますよね(^^; そういえば河内家菊水丸さんが西洋音階は12しかないが、音頭はもっと細かく何十もある、と言ってたことを思い出しました。
 さて本書は、西海岸の名門音楽院の入試に日本からやってきた主人公が、入試(実技)の過程で仲良くなった、ギャングの息子の少年とメキシコ系の大入道の、三人(トリオ)の、音楽を介した友情の物語であり、主人公渡米の今一つの目的である父親探しの過程で手に入れた悪魔のシンセサイザー”パンドラ”が紡ぐ物語であり、且つ、元ピアニストながら”失音楽症”となったせいで世界から音楽を追放しようと画策する富豪の実験を、トリオを中心に出来上がった人の輪が、それを粉砕する物語でもあります。
 いやー宮内悠介、面白いです。ふと思ったのですが、この作家のジャンルにおけるポジションは、われわれ世代にとっての山田正紀に匹敵するそれなのではないでしょうか。何の前触れもなくさりげなくSFMに掲載された「神狩り」を読んだ時のショックを今でも忘れませんが、それに匹敵するショックを、宮内作品は最近の若いSF読者に対して与えているのではないか。そんな構図を思い浮かべてしまいました。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月25日(日)22時27分25秒
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「駆込み女と駆出し男」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月24日(土)23時57分37秒
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   映画「駆込み女と駆出し男」(15)を観ました。
 江戸時代、女の方から離婚を申し立てることは許されていなかった。そんな時代、鎌倉の尼寺・東慶寺は、唯一幕府から認められて、そのような法の不備を繕う縁切り寺として、夫から逃れてきた女たちの駆け込み場所となっていた。
 ただし駆け込んだら即離婚が認められるのではなく、寺は夫に離縁状を書かせる(ことができる)のですが、それを預かるのですね、妻が二年間寺で修行を積んだのち、初めて妻の手に離縁状が渡され、縁切りが成就されるというシステム。(男のほうは離縁が済めばその翌日でも再婚が出来ます)
 本篇はたまたま二人の女が東慶寺をめざして逃走中に一緒になり、寺へ入るための聞き取り調査を受け持つ門前の御用宿柏屋へ到着する。
 同じ日、柏屋の親戚で、江戸で医者修行の傍ら戯作作家を目指していた信次郎という男が、折からの水野忠邦の天保の改革で鳥居耀蔵が南町奉行となり強引な引締め策を強行、戯作本が弾圧されるに至り(但し合巻の「八犬伝」のような忠君勇壮なものは残った。が、本篇で馬琴が仄めかしたように色々配慮しなければならず自由には書けなかった)、戯作を諦めて柏屋に帰ってきます。
 この二人の駆込み女と信次郎が絡んで、ストーリーは進行してゆきます。
 これは傑作でした。ストーリーの出来といい、配役の豪華さといい、金の掛かったセットといい、まさに日本のメジャー映画の良作と言ってよかろうと思いました。
 大泉洋は、なんとなく昔の石立鉄男を髣髴とさせられますね。いい役者ですね。

 

「新宿スワン」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月24日(土)13時47分48秒
返信・引用 編集済
   映画「新宿スワン」(15)を観ました。
 スッカラカンで帰るねぐらもなく、とぼとぼ新宿歌舞伎町を歩いていた主人公、チンピラと触れた触れないで喧嘩を始める。その喧嘩っぷりが気に入ったとたまたまそれを見ていたスカウト会社の幹部にスカウトとしてスカウトされます。
 スカウトとは路上を往来する女性に声をかけ、風俗に斡旋する仕事で、当映画によると契約が成立したら斡旋した女性の稼ぎから10パーセントが、その女性が働いている間ずっと支払われるという仕組み。
 スカウト会社に所属しているのですから当然スカウト会社にも何%か行く筈で、それがスカウトの取り分から徴収されるのか、スカウトとは別途契約した風俗店等から支払われるのか、それは映画の説明ではよく分かりません。
 いずれにしても一種の搾取構造であるのは間違いないとはいえ、諸般の理由でスカウトされたくて歌舞伎町をうろうろしている者もいて(或いは踏み出しかねて背中を押してもらうためにうろうろしている者もいるでしょう)、そのような人には店とを繋ぐ一種の仲介業の役割を果たしている。
 主人公はいわば良心的なスカウトで、良心的な店を紹介していて多くの女性に感謝されているのですが、だとしてもスカウトに店の内情が分かっているわけではなく、知らずに悪徳業者に紹介してしまうこともあるわけです。そもそも悪徳スカウトは言うに及ばずです。
 というわけで、主人公はこの世界で、一種の正義を貫いて闘うヒーローではありますが、そもそもその基盤が上記のように危ういところに立っている。まあヤクザ映画は皆そうかもしれません。
 ストーリーは、歌舞伎町を二分するスカウト会社の食うか食われるかという抗争が主軸で、敵対するスカウト会社に所属する秀吉という名の男が、異常に主人公に対して牙を剥いてくるのですが……

 まさに21世紀的な新しい意匠(衣装)で作られた旧きヤクザ抗争映画で、面白かった。ロードショーで観た観客が、肩で風を切って上映館から出ていくのが目に見えるようでした(^^;

 

「Visions」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月24日(土)00時37分0秒
返信・引用 編集済
  > No.7461[元記事へ]

 承前、長谷敏司200枚の中篇「震える犬」を読みました。
 コンゴでチンパンジー知性化プロジェクト(すでに石器使用段階に達している)のフィールドワークに従事する人類学者と、知性化を促進されたティミーというチンプの「出森林」の両方向から描かれ、それにコンゴの部族間対立が絡む熱気に溢れたストーリーで、大いに楽しみました。最終的に知性化チンプの「出森林」が、結局現世人類の再現でしかないという重ね合わせの苦い予感に包まれるラストもよかった。
 この著者は、「あなたのための物語」でその悪文に辟易させられ、以後手を出していなかったのですが、本篇で文章が目覚ましく改善されていることを知りました。とはいえ従来の、「自分だけ分かっている」構文が全く消えてしまったわけではなく、何を書かれているのか不明な箇所もいくつか残存していて、それはどうやら著者がアドレナリンを滾らせて書いている場面であることが分かってきました。打鍵が頭に追いつかないという感じ。まあありがちですよね。こんなのは少し寝かせて読み返せば簡単に発見できると思います。惜しい。

 ということで、大森望編『Visions』(講談社、16)読了。冒頭の「星に願いを」がひとつだけ異質で、それ以外はどれも楽しめました。「星に願いを」は古いSFの焼き直しというより、SFとは文法が違うように感じました。この作品群の中に並べられると割りを食ってしまいましたね。

 

「ジヌよさらば」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月23日(金)13時47分30秒
返信・引用 編集済
   映画「ジヌよさらば」(15)を観ました。(ジヌはカネ(ゼニ?)の東北方言のようです)
 元銀行員営業で、貸し剥がしなどを実見しているうちに、金は見るのも恐ろしく、触ったら失神してしまう「お金アレルギー」になってしまい普通の都会生活を営めなくなった男が、もうお金というものには一切かかわらないと決めて、東北の限界集落、人口数百人のうち大半が老人というかむろば村にやってくる。一軒家と農地を100万円で買い※、お金とは縁を切ろうと自給自足生活を始めるのだが、早速困難に直面する……
※それでも300万ほど貯金が残っていて、もう必要ないと通帳印鑑まるごとゴミ出し(これも本当は村へ費用を支払わなければならないのですが村長の好意で大目に見てもらう)したところ、分別しなかったので発見され大騒ぎとなり村民全員に知られるところとなる→これが伏線となります。
 ……という出だしからすると、どんな話になるのか大体見当がついて、それで大いに興味を持ち観ようと思ったのですが、あらら、お話はどんどん横へずれていきます。
 登場人物は、主人公も含めて全員ちょっとおかしい。一筋縄ではいかない、可怪しいし可笑しい連中ばかりで※、どうやら「生き神様」まで存在する世界らしい。
 という具合に、設定のかむろば村自体が現実離れした幽境仙境めいた世界に見えてきます。
 一種夢の世界のようで、一人一人を取り上げて見ると、現実の人たち(を描いている)とするには辻褄があわないのですね。
 そういう意味ではずっと首をかしげて見ていたという感じでした。
 このようなデフォルメはちょっと漫画的かなと感じ、漫画が原作なのかもとふと思ったのですが、調べたらそうではなかった。むしろ監督が演劇畑だそうで、デフォルメは演劇的なのかもしれません。
 ――とはいっても、鑑賞中はただの一度たりとも(どうも安倍さんが自己弁護の強弁に「~たりとも」を頻用するのでこの頃これを使うのに抵抗が出てきて困ります)我に返ったりすることはなく、退屈の「た」の字もなく(同上)、没入して視聴し、満足して観了したのですから、映画としてよくできているのは間違いないでしょう。
 あるいは私自身が、松尾スズキ監督の世界に慣れていない(初めて観た)せいかもしれません。

※話はそれますが、三津田信三がデヴューしたときすごい作家が現れたものだとしばらく出れば必ず読んでいたのですが、ふと可怪しいも可笑しいも「可笑しい」と書いていることに気づいてしまい、追いかけるモチベーションが消えてしまったのでした(というかそれは従で、作品の出来不出来が激しく小説を甘く見ている(製品の品質管理基準が甘い)気がしてきたというのが主たる理由ですが)。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月22日(木)22時46分6秒
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   元記事 英文記事 2ch

 

「本迷宮」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月22日(木)21時54分14秒
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   先々月、斎藤さんが紹介して下さった『本迷宮』ですが(こちら)、私も知合いの方のご厚意で、ラッキーにも入手するを得ました。ありがとうございました。嬉しい(^^)
 
 さっそくパラパラ見たりしています。いやこれは想像していた以上! 丁寧に作り込まれた造本、3枚いただいたそれぞれに意匠を凝らした表紙カバーもなかなかのものですが、わけてもふんだんに挿入された挿絵がどれも素晴らしいです。まさに書物の工芸品ですね。
 眉村さんのショートショート「来たければ来い」は、『イシュタルの舟』ミニ版という感じ。いいですねえ(^^)。
 

 

分岐点?

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月21日(水)20時49分51秒
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   今日はお葬式。実はおととい、FAXで連絡が来ていたのですが、うっかり見落としていて、昨日、当掲示板の書き込みをした直後に FAXを発見。すでにお通夜は終わっている時間でした。
 昨日の書き込みで葬式の例をあげましたが、ですから偶然の一致なのです。
 それはいいのですが、昨夜あわてて喪服を出してきて着てみたところ、なんと、ズボンがきつくなっていて、ホックが留まらないどころか、ファスナーが三分の二までしか上がらないではありませんか。
 そういえば、ここ数年喪服を着る機会がなかった。いつの間にかずいぶん成長してしまっていたようです(>おい)。
 難儀やなあ。困ったなあ。仕方がない、普通の黒いズボンを穿いていくしかないかなあ、と考えながら就寝したのでした。
 今日のお昼、出かける直前に、もう一度喪服のズボンをはいてみました。
 あら不思議。ホックが留まったじゃありませんか。
 びっくりしました。わずか 12時間ほどの間に、ズボンが穿けるまでにやせたのでしょうか。しかしそうとしか考えられません。
 午前中にトイレに行きましたが、それで穿けるようになったのか? トイレの前と後とで、そんなに腹回りが変わるものでしょうか。
 何はともあれ、おかしな格好で参列せずに済み、ほっとしたのでした。
 亡くなったのは取引先の社長で、今日知りましたが、享年 62歳とのこと。もうちょっと上かと思っていたのですが、私より一つ上なだけと知ると、なんか愕然とします。
 最近、60過ぎで亡くなる方が私の周りで多いような。
 印象に引きずられてる? いやいや、この世代は繁栄の中で育った世代なんですね。飽満世代です。もうだいぶ前になりますが、西丸震哉が 42歳寿命説をとなえましたね。今、日本人は男女とも高寿命ですが、ひょっとしたら我々の世代から順次短命化が進んでいくのかも。いや分かりませんよ (^^;。

 

「Visions」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月20日(火)21時42分13秒
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  > No.7456[元記事へ]

 『Visions』は「あなたがわからない」迄読みました。
 「あなたがわからない」は大変面白かったのですが、よく考えるとこれ、「KYは死ななきゃ治らない」という、KY者にすれば、なんとも容赦のない残酷な話なんですよね(ただし発達障害が原因の場合)。
 小説(虚構)の設定ですからそれを否定したりはしませんけれども、リアルな立場からすると、《経験の蓄積効果》が等閑視された設定だと思います。現実はそんな白黒的な硬直したものではない。白黒が混ざった灰色です。
 先日読んだ『コンビニ人間』はかなりリアリティがありまして、ふつう「コンビニ人間」的な対処法で何とかなっているんですね。
 当然社会関係を取り結べば結ぶほど、場数を踏めば踏むほど、いろんな事例に遭遇し、こういうときはこう反応する、という反応のパターンをどんどん増やしていける(当然ながら引き籠もっていてはムリです)。
 で、そのうちそれが意識せずとも出るようになります。無意識に行えるようになったパターンは、健常者のそれと、外から見る程度で区別できるものではありません。
 葬式で鼻をすするのは、最初は意識的であったとしても、無意識に出て来るようになれば、本当の感情と異ならない。最初は模倣だったとしてもいつしかそれは自然な感情と区別がつかなくなる(極端ですが、私はボッコちゃんと人間の間は地続きだと思っています)。
 『コンビニ人間』で、健常者も実際は同じメカニズムで行動していることが喝破されますが、そうなんですね。KYという、健常者とは別の人々がいるわけではない。KYと健常者の間は非常に曖昧なんです。
 このように、そもそも人間て「可塑的」なんですね。そして社会自体も人間関係の網の目が社会ですが、そんなに厳密ではない。人と人を結びつけるのは会話ですが、会話も科学の検証や哲学の対話みたいなものではなく、多分に浮ついた感覚的な世界であり、結局人は人と会話しているつもりで、実際は自分の内部と話しているにすぎません。
 そのような人間由来の曖昧さが、柔らかさが、この小説の世界観にはみられない。その意味でこの小説は救いがなさすぎるような。面白かったですけど(^^;

 

Re: チャチャヤング・ショートショート・マガジン4号パイロット版

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月19日(月)17時04分3秒
返信・引用 編集済
  > No.7458[元記事へ]

 段野さん

>(前号で三分割したとある作品を)一挙掲載するらしいです
 おお、それは楽しみです~。前篇掲載号も何年前でしたっけずいぶん前で完璧に忘れており、あらためて一挙掲載は逆にありがたいですね(^^;
 しかしそうしますと、頁の大半をH作品が占めることになるはずで、つまり二度目のH氏特集号ということなんでしょうね(^^)

 

本の雑誌、大森さんによる紹介

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月19日(月)16時44分33秒
返信・引用
   本の雑誌2017年1月号に掲載された大森望さんの『神樂坂界隈』紹介文。

 
 

Re:チャチャヤング・ショートショート・マガジン4号パイロット版

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年12月19日(月)10時04分37秒
返信・引用
  管理人様
>どこぞとは違ってうちは平等主義ですから
あ、別に気にもしておりません。(でも、何のことか、分からない方がおられるやも)
その件のところは、とうに雑誌が発行されてもいい頃なのですが、原稿が集まらずに、とうとう、(前号で三分割したとある作品を)一挙掲載するらしいです。書き手が減ったところですから、四苦八苦しているんでしょうね。
 

チャチャヤング・ショートショート・マガジン4号パイロット版

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月18日(日)22時34分21秒
返信・引用 編集済
   パイロット版をつくってみました。表紙の色は暫定です。
 
 

 うん。なかなかのものではないでしょうか(>自己満足)
 このパイロット版で通読しながら、ミスがないか確認していくつもり。
 で、のっけからミス発見。
 誌面は2段組なんですが、篁さんの作品がなぜか1段組になってました。さっそく修整。
 どこぞとは違ってうちは平等主義ですから、平等に負担してもらっているのですから、ひとりだけ特権的に1段組というわけにはいかんのです(>おい)(^^ゞ。
 その結果、先回お見せした目次が変わってしまいましたので、訂正して再掲しますね。
 
  追加↓
  

※言うまでもないですが、篁さんに他意はありませんからね。ごめんね(笑)

 

「Visions」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月18日(日)19時44分46秒
返信・引用
   大森望編『Visions』に着手。
 冒頭の、宮部みゆき「星に願いを」を読みました。
 うーん。これ、外的ストーリーも、内的ストーリーも辻褄が合わないような……

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月18日(日)17時20分14秒
返信・引用
   元記事

 

「刑罰0号」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月18日(日)13時47分7秒
返信・引用 編集済
  > No.7448[元記事へ]

 4話「エレクトラ」、5話「NOVO 0号」、6話「聖戦」、7話「グラウンド・ゼロ」を一気に読み、西條奈加『刑罰0号』(徳間書店、16)読了。

 4~7話はそれで一つづきの中篇です。
>「生涯かけてやってきたことは、ひとつだけだ」が繋がらないのですが、この後の話で繋がっていくのでしょうか。
 と、書き込みましたが、繋がってました! いらぬ心配でしたm(__)m

 いやー面白かった。まさに《第一世代SF》でした。いうまでもなく、《第一世代SF》的という評言は、わたし的には最大の賛辞です。念のため(^^;
 同時に、本書のメインアイデアである<記憶の抽出→他者脳へ転写>という「テクノロジー」の具体的な解説がなく、ブラックボックスである点も、ある意味《第一世代的》といえるかも。
 いやほんまですよ。石原さんや小松さんの一部の作品を除けば、第一世代はブラックボックス化することでストーリーを円滑に流していて(たとえば『復活の日』は説明の膨大さに苛々して私にはとても読み難かったです)、私はそれがポピュラリティ獲得に繋がったと思っています。
「他者脳へ転写」と書きましたが、厳密には100%そのままではなく、というかそもそも人間は100%記憶しているわけではなく、パターン認識でリソースを減らしているわけですが、まずいったん疑似脳で「加工」(物語化)されたものが「転写」されるのです。
 これはしかし記憶そのものがそういうものですよね。ですから転写された記憶に不都合が生じたら、すぐさま脳は、「無意識」がそれを修整する。(『代体』ではまさにその場面が活写されてましたね)。
 Aなる若者へ転写されたBなる老人の「不連続な」記憶(≒人格、意識)は、若い身体という条件変化とも相俟って、過去の欠落を合理化で埋めつつ、未来に向かっては、Cなる第三の人格として出発し経験を積んでいく。という説明は、全くそのとおりですね(ときどきAやBが顔を覗かせはしますが)。

『代体』もですが、本書も《脳SF》です。ゼロ年代は猫も杓子も《電脳SF》でしたが、10年代はイーガンの影響かどうか分からないですけど、脳SFが隆盛なんでしょうか。こんな流行はうれしいですねえ(^^;

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月17日(土)22時15分5秒
返信・引用
   
 扉と目次

 

Re: すいません、しつこくて

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月17日(土)21時44分44秒
返信・引用 編集済
   段野さん
 恵文社はよく分かりませんね。
 風の翼に書き込みされているように、凛さんが近々観に行かれるようなので、報告があるかもしれません。

 大阪ほんま本大賞――って初めて聞きました。いろいろ調べてみました。「大阪の本屋と問屋が選んだ、ほんまに読んでほしい本」とのことで、そんな文学賞があったんですね。
 しかもすでに今年で4回目、今年の受賞者が増山実さんなのですね。
 そして気がつきましたが、どうもその年の出版でなくてもいいみたいですね?
 というのも、受賞作の『勇者たちへの伝言』は3年前、2013年に上梓された本なんです。しかもなんと阪急ブレーブスがテーマの小説ではないですか。

《 ベテラン放送作家の工藤正秋は、リサーチのために乗車していた阪急神戸線の車内アナウンスに耳を奪われた。「次は……いつの日か来た道。――」それは「西宮北口」の聞き間違いだったが、彼は反射的にその駅で電車を降りた。
 小学生の頃、今は亡き父とともに西宮球場で初めてプロ野球観戦した日のことを思い出しつつ、街を歩き始めた正秋。いつしか、かつての西宮球場の跡地に建つショッピング・モールに足を踏み入れる。
 その片隅の阪急西宮ギャラリーには、野球殿堂入りした阪急ブレーブスの選手と関係者のレリーフが展示されていた。正秋の意識は、その場所から、「いつの日か来た道」へ飛んだ。四十数年前の西宮へ―― 》


 面白そう!! でもこれ、出版業界小説なんですか? 主人公は放送作家ですが。というか、段野さん読みました?(←疑惑のまなざし)(笑)。いやいいんですけど、読んだこともない作家に猪突インタビューするなんて、いかにも段野さんらしいなと(>おい)m(__)m

※あ、勘違いしていました。ここによれば、対象は文庫本ということですね。本書は去年文庫化されているので、対象になったわけですね。

 

すいません、しつこくて

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年12月17日(土)20時57分43秒
返信・引用
  今日、講演会に行きました。講師は「増山実」さん。「勇者たちへの伝言」で、角川春樹事務所からデビュー、それが「大阪ほんま本大賞受賞」された方です。出版社にお勤めだったとのことだったので、「どちら様ですか」とお問合せしました。逆に、「あなたは何者ですか」と問われ、(やはりな)と正直にお答えしました。
「業界ものを書きますと、嫌がやれます」とお答えしますと、「わたしも、業界物、書きたいですね」とのお答え。有り難く、頂きました。
ちょっと、嬉しかったです。「業界もの」を書けば、ブーイングの嵐でしたから。
 

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