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眉村さん情報:ラジオドラマ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月25日(木)21時59分9秒
返信・引用 編集済
   ここのところ、ラジオドラマ「もうひとつの時間」の 私の記事 に向かって飛んで来られる方が、毎日のようにいらして、ちょっと驚いているのです。この作品はリンク先に記したように、眉村さんの「すべり込んだ男」をラジオドラマ化したものなんですが、何かあったのでしょうか。再放送されたとか、される予定があるとか。
 私の方には何の情報もないのですが、もし何らかの情報をお知りの方がいらっしゃいましたら、お知らせいただけますと幸いです。

 実はまだ少しあいまいな情報なのですが、この秋に、NHKラジオ第一放送「ラジオ深夜便」にて、眉村さんの、昨年六月に放送されたラジオドラマ「豪邸の住人」が再放送されるようです。
 今のところ分かっているのは、ラジオ深夜便の 午前二時台ということと、放送日が十月の 22日、23日、24日のうちのいずれかということだけです。放送日があいまいな理由の一つに、午前 2 時を、午後 26時とすると、前日の放送と解釈できるからです。まだラジオ深夜便のホームページには何も載っていません。分かり次第お知らせしますが、どうも最近、物忘れがひどくて、2カ月先となると忘れてしまっている可能性もなきにしもあらずというか、むしろ忘れている可能性の方が高そうです(汗)。
 もし新たな情報をお知りになることがありましたら、是非書き込んでいただきたく、よろしくお願いいたしますm(__)m


 
 

Re: けったいなメール

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月24日(水)21時22分33秒
返信・引用
  > No.7224[元記事へ]

 ヤマト運輸はうちにも一度来ましたねえ。その時まず思ったのが、何も注文してへんけどなあ、で、その直後に、あ、ウィルスメールか、と気づいた次第。もしアマゾンからの到着待ちのタイミングだったらあぶなかったかもです。よく見ればなりすましであることは一目瞭然なんですけどね。
 それからこれも危ないタイミングと思ったのですが、半分眠りながらPCを開いているときで、うっかりやってしまいそうです。
 私は可能な限りメールソフトのメッセージルールに撥ねる単語を登録しておくのですが、これはかなり有効です(もちろんヤマト運輸みたいな単語は登録できないので、完璧ではありませんが)。
 先日「Bキャス」関係の単語はもう外してもいいだろうと削除したところ、早速Bキャス関連の迷惑メールが届いて、まだこんなのが回っているのか、とちょっと驚きました。
もしかしたら自動設定で(ツイッターのボットみたいな)発信されているのかなと想像しました。人間の設定者は、既にどこにもいないのじゃないでしょうか。しかしボットはそういう判断はできず、いまなお律儀に黙々と発信し続けているのかも。そう考えると、センス・オブ・ワンダーですねえ(^^;

 

けったいなメール

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 8月24日(水)10時21分3秒
返信・引用
  管理人様
私には、ケータイで、まさにこんな感じで、やってきます。「何とか司法事務所」(私にはまったく関係ない)が「例の書類を添付しました」こんなの開けると、やばいやばいです。「ヤマト運輸」を名乗ってくるのは、「荷物集配のご依頼ありがとうございます」、荷物の依頼なんかしてへんよ。
ケータイも、パソコンも、油断できませんね。
 

「発達障害に気づかない大人たち」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月23日(火)22時48分8秒
返信・引用 編集済
   星野仁彦『発達障害に気づかない大人たち』(祥伝社新書、10)読了。
 発達障害って、今まで精神(その特定の部分)が十全に発達しない(阻害される)ことを指しているのだと思っていました。
 そうではなかったのですね。
 ずばり単純に(何の価値論も含まない)物理的な脳という「臓器」自体の発達がアンバランスなことが原因となって現れる症状をいうようです。
 そういう意味で、私は「発育」という方が妥当じゃないかと思ったのですが、身体の発育がよい、よくないというのと同じ意味で(それだけの意味で)脳の発育がアンバランスということのようです。その発達が阻害された任意の部分にはそれが担う役割、脳機能があり(例えば脳内物質の生産)、未発達だと脳内物質も不足して、それが行動に影響を及ぼすのです。
 たとえばADHDは「前頭葉の機能不全」から引き起こされるようです。動物実験でもここに損傷を与えると脳内伝達物質のモノアミン(ドーパミン等)が低濃度となり、ADHDと同じ症状を示すようになる。ドーパミンを投与すれば著しく改善される。人間のADHD者でもその効果はまったく同じだったとのことです。
 だとしますと、多動性児童に、もっと落ち着けと叱ってもまったく意味がない。本人の性格ではなくて脳内物質の多寡が原因だったのですから。例え話をすれば地球征服した三つ目宇宙人から、なぜ君たちは二つ目なのか。ケシカラン。われわれをナメとんか。三つ目にしなさい、と叱られるみたいなものです。困っちゃうわけです。
 この知識は、一般に広く知られるべきではないでしょうか。
 そしてこのような状態がゼロ座標の児童は、そのゼロ座標が一般のゼロ座標とは最初からずれているわけで、ただそこに(その人にとって普通に)居るだけで、一般人からすればちょっと変って見える。(ここから価値の世界です)。
 その座標のズレが、つぎに「社会的」な軋轢を生んで、その人にマイナスの影響を与えてしまう。
 単なる臓器の発達障害が社会的な障害を二次的に発生させてしまうのですね。
 本書を読んで、どうも私はADHDの気がありそうです※。ただそんな私(のゼロ座標)からしても、もっとずれた座標に住む人がいて、実はそんな人と仕事をしたことがあるのですが、大変な目に会いました。
 私は発達障害の知識は広く世間は知るべきだといいましたが、たとえ知っていたとしても、具体的な生活空間にその人がいたら、やっぱりすごいストレスを感じてしまうような気がします。むずかしい問題です。

※ADHDとアスペルガー症候群(AP)は同じ発達障害だといっても、正反対な現れ方をすると思っていたのですが、実はほとんど同じみたいです。ただAPにのみ発現する特徴があって、それは私には当てはまらなかったので、ADHDとしたわけです。
AP独特の徴候としては次のようなことがあげられるようです。
1)対人関係(社会性)の未熟――そもそも友達をつくる意欲がない
2)言語コミュニケーションの欠如――会話のキャッチボールができない
3)こだわり・興味限局傾向――ひとつのことに異常なまでの興味を示す。自分なりの特定の習慣や手順、順番に強いこだわりがあって、臨機応変な対応ができず、変更や変化を極端にきらう。ルールや決まり事を頑固に守り、融通が利かない
4)感覚・知覚の異常――味覚や嗅覚、触覚と聴覚の過敏
5)協調運動の不器用さ――スポーツや手先の運動が上手にできない

追記。書き落としましたが、チャウシェスクの子どもたちのように、極限的な体験が脳の発達(発育)に関与するという後天的な場合もあるようです。日本の戦災孤児にもそんな例があったかも。『晴れた空』のバアちゃん(だったっけ)はそうだったかもしれませんね。


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月23日(火)17時04分24秒
返信・引用 編集済
   こんなのが届きました。こういうあっさりと事務的な文面だとついうっかりしちゃいそうですね。この場合は、特許なんて私の仕事とまったく関係がないので、あ、きやがったな、でしたが、kobayasiなんてどこにでもある名前ですし、文面の内容が仕事と関係があったりしたら、あ、あのkobayasiさんかな、と、考えが悪意メールに行き着く前に、ぱっと開いちゃいそうです。アブナイアブナイ。ということで差出人名と差出人ドメインを受信拒否リストに登録の上、迷惑メールとして処理しました。みなさんもお気をつけ下さいね(汗)
     ↓クリックで拡大
 

「大阪文学名作選」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月21日(日)13時56分49秒
返信・引用 編集済
  > No.7219[元記事へ]

 川端康成「十六歳の日記」を読みました。
 なんと老人介護小説です。
 舞台は茨木駅から一里半の、明治期の戸数五十戸ほどの北摂の村落(金持ちの代名詞が「鴻池」であるところから、このあたりも(広い意味で)「東成圏」であることがわかりますね)。
 十六歳(満年齢で十四歳)のとき、同居していた七十五歳の祖父の死がいよいよとなる(ふたりきりで住んでいたのです)。著者は原稿用紙百枚用意し、祖父を記す日記を書き始める。それは五月四日に始まり十六日まで記録されていました。
 実際亡くなったのは二十四日で、十六日で記録が止まったのは、それどころではなくなったからだろうと、著者はあとがきで推測しています。
 十年後、著者は倉にあった鞄のなかにその日記を発見したのですが、「私がこの日記を発見した時に、最も不思議に感じたのは、ここに書かれた日々のような生活を、私が微塵も記憶していないということ」なのでした。(後年、さらに数枚の日記が見つかり、もう数日先までは記録がなされていたことが判明します。あとがきの二による)
 しかしそれは本篇を読んだものには、当然の防衛機制による抑圧だと了解できるのではないでしょうか。「忘却を恩寵と感じる時もある」(あとがきの二)
 また「私は忘れていた過去の誠実な気持ちに対面した。しかし、この祖父の姿は私の記憶の中の祖父より醜くかった」とも書かれています(あとがき)。これもよくわかります。「私の記憶は十年間祖父の姿を清らかに洗い続けていたのだった」
 「死に近い病人の傍でそれの写生風な日記を綴る十六歳の私は、後から思うと奇怪である」(あとがきの二)というのは、自己の作風を自己分析してみせたような臭みもありますが、かかる無感動もまた、圧倒的な事実(老醜)を目の当たりにし、それをそらす術もない十六歳(満では十四歳)の子供の、当然の防衛機制であったと思われます。
 かくのごとく本篇は、解説にもありますように、二つのあとがきも含めて一つの小説として読むべき作品であるといえます。
 いずれにしろ、老人介護小説なんて、読む方も苦痛ですよね。

 追記。解説に「かわされる話コトバが、昨今流通するような関西弁とか上方語としてでなく、一地方の地方語(方言)として扱われ、小説のなかで有効に働いている」というのは鋭いと感じました。言われてみれば確かにそうです。私たち関西人は関西弁であることに過剰に意味を託しすぎているところがあります。

 ということで、富岡多恵子編『大阪文学名作選』(講談社文芸文庫、11)読了。
 さすが名作揃いで堪能しました。解説での、編者富岡による各作品に対する鋭い指摘も楽しい一冊でした。
※なお、本篇は著者二七歳のとき(大正十四年)、「あとがき」を付して雑誌発表されました。「あとがきの二」は昭和三四年全集収録時に加えられたとのこと(ウィキペディア)。


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月21日(日)03時23分16秒
返信・引用 編集済
   
 元ツイート
 

「大阪文学名作選」(10)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月20日(土)23時40分2秒
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  > No.7217[元記事へ]

 折口信夫「身毒丸」を読みました。
 田楽とは、田植え等折々の農耕儀礼の時行なわれる祭事で、そもそも村ごとに自分らでやっていたのが、次第にそれを専門として、各地を回って執り行う集団が発生した。それが田楽師です。
 要するに神に豊穣を願って祈るとともに、神を歓待するため歌舞する、そういう一定のプログラムをもった専門集団といえますが、結局のところ村人に娯楽を提供するもので(曲芸みたいなこともしたようです)、季節ごとの「祭」をプロデュースしていたのだと思われます。
 主人公身毒丸は、住吉の田楽師、信吉法師の子供です。信吉が束ねる座は、住吉の御田植神事の時以外は年中旅回りで、遠く伊賀伊勢まで田植能の興行に訪れる。
 身毒丸は(おそらく母がいないからでしょう)小さい時から旅に伴われた。身毒丸9歳の時、信吉が姿を消す。消えたその夜、寝ていた身毒丸は父親に揺り起こされ、くどくどと話を聞かされた記憶が残っている。
 断片的に覚えてもいて、自分の一族は業病があり、本来この身で血統を断つつもりで得度したのだが、女と関係してしまい(身毒丸が生まれ)田楽法師に身を投じたのである。ところが遂にその病が自分の身にも現れたのでもう一緒には居られなくなった。お前も法師となって浄い生活を送れ。というような内容だったのではないかと、後に身毒丸は類推します。
 男女間を淫れた関係と捉え、それが業病を発現させると考えていたのですね。
 事実、近頃急に信吉の肌に蝦蟇のような斑点が現れていて、見咎めた身毒丸がそれは何かと聞いた夜に、信吉は失踪したのです。
 その後身毒丸は、信吉法師の弟分であった源内法師に養われ、その座に加わって各地を歌舞して回っていた。ところが持って生まれた美貌で、ストーカーも現れる。
 源内は信吉一族の業病を知っているので、父親の轍を踏むのではないかと、気が気ではありません。身毒丸が同じ過ちを繰り返さぬようとりわけ厳しく当たるのでした。
 あるとき、伊賀越えの途次(奈良と三重の県境の)国見山の手前の盆地(大又川の源流あたり?)の非御家人(ということは、時代は鎌倉時代でしょうか)の隠れ里で歓待を受ける。あてがわれた部屋で休んでいるうち、身毒丸はいわゆる鬱っぽくなります。疲れて動きたくない。毎日が旅の生活が嫌になります。ひとところに落ち着きたい。それを僚友の制「タ」迦(「タ」は[咤-宀])に言うと、お前は猿楽に移るつもりか、と邪推される(当時、田楽は新興の猿楽に押され、やがて衰えるのですが、それが取り込まれているわけです)。
 明日の祭りの準備を仲間たちは始めるのですが、身毒丸は鼻血が出てふらふらと倒れる。師匠が休んでおれという。部屋で休む身毒は、夢を見ます……

 著者は「附言」で、「この話は、高安長者伝説から宗教倫理の方便風な分子を取り去って、最原始的な物語にかえして書いたもの」
 といっています。この伝説から、謡曲の「弱法師」、説教節の「しんとく丸」、人形浄瑠璃や歌舞伎の「攝州合邦辻」などが生まれたが、謡曲よりも説教節のほうがより原型に近い。本篇はそれからさらに、後世に付加されたもの(倫理や道徳)を(研究によって)外していったとのこと。
 つまり、科学的な思考から析出された物語なんですね。そういう科学的な作物が、しかしまた新たな感興を備えているのが面白い。私はなんとなく、柳田は合理的、折口は非合理的との先入観がありましたが、先般読んだ「死者の書」もそうでしたが、折口も基礎にあるのは合理的精神※なんですね。大変面白く読了しました。
※ただしそれはレヴィ=ストロースの合理性に近いものだと思います。

 

     

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月20日(土)02時05分26秒
返信・引用
   元ツイート

 

「大阪文学名作選」(9)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月20日(土)01時40分32秒
返信・引用 編集済
  > No.7216[元記事へ]

 宇野浩二「子の来歴」を読みました。残念ながら舞台は東京です。
 ウィキペディアを参照しますと、名前などは変えられているとはいえ、本篇の内容はほぼ宇野浩二自身の身の回りであった出来事をそのまま使っていますね。
 主人公の健作は主に童話を書いている作家。妻との間に子はない。
 健作には 12歳になる(生みの母親まかせにしている)隠し子がいる。12歳というのは事実を述べているだけで、実際はその子が何歳であるのかほとんど把握していません。
 関心がないのです。
「多くて 1年に 4、5度(子供のことを)思い出すということは、思い出さないことと殆ど同じである」
 実はこの男、そもそもそういう性格みたいです。
「彼が12歳の頃は変屈と云われる程無口で、学校へ行く外は殆ど内にいて本を読み、学校に行っても殆ど友達と物を云わなかった」
 中年になり大病を患い、それは快癒したのですが、それを機に妻が、今のうちにどこかから子をもらいたいのだが、心当りはありませんか、というのです。
 それではと、友人の子福者の名前を挙げる。自分の子どものことを全く忘れているのです。
 実は妻は隠し子のある事を知っていた。で、逆にそれを指摘して、交渉してはどうかというのです。
 そもそもそんなこと(雑事!)にはまったく関心がない健作は、自分はそれでちっとも構わないが、メンドクサイから交渉はそっちでやってくれ、と妻に丸投げする。
 そんな性格なんですねえ (といいながら、私もギクリとしています)(^^;
 で、妻が万端話を進めていくのが本篇の内容です。

 昭和8年発表の小説で、読んでまず思ったのは、現代人とはかなり考え方が違うことでした。親子関係、母子関係、父子関係の社会的な在り方が、今とはかなり違っているのですね。(余談ですが、主人公自体、「彼も殆ど母方の祖母一人に育てられた、彼は十の年まで生みの母と一緒に暮らしたが十一から後は二十五六の年まで生みの母と別れて暮した」。これも年譜を参照すると、ほぼ事実を用いているようです)。
 我々が当たり前に思っている核家族が、実は特殊なのかもしれません。
 それは社会的なインフォーマル制度としてそういうことであって、母子の情愛とかは昔も今も違いはない。しかしそのあらわし方が異なるのです。
 子の実母は私生児で、その実母もまた私生児として生まれた。実母を生んだ母親(子の祖母)も、「曾祖母」の私生児として生まれているのです。ですから実母は、子を自分の手で育てたい意志は強いものの、父親からの(厳密にはその妻から)申し出は大変ありがたいものであったのも事実でした。社会的な意味では子のためにも。じゃあ子供はどうなのか。親の都合であっちやりこっちやりしていいのか。
 ところが子供は、むしろ嬉々としているのです。
「坊や、」と光子(実母)が傍から云った。「そんなに愛想づかしを云わないでもいいじゃないの」

 この子は父親とは正反対、明るくて友達もたくさんできるタイプのようです。現実においても、年譜を見ると、大人になってからは父親の片腕となっています。本篇以降の宇野浩二の小説にもしばしば登場しているようです。
 本篇は、実母と子供を対象において、前半は父親健作の身勝手さ、冷たさが描かれ、それと対照するように、後半は健作の妻の血というものを越えた情愛が描かれていて、読ませます。





 

「大阪文学名作選」(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月19日(金)02時51分12秒
返信・引用 編集済
  > No.7214[元記事へ]

 武田麟太郎「井原西鶴」を読みました。
 著者の作品は、若い頃『日本三文オペラ』を読みかけて中断して以来。要するに初読ということですが、いやこれは面白かったです。
 こんな面白い小説を書く作家なのに、しかも『日本三文オペラ』はこの作家の代表作なのに、なぜ読めなかったのでしょうか。おそらく、物語に没入する以前の段階で、その文章スタイルについていけなかったのでしょう。
 改行がほとんどないのです。本篇は特にそれが顕著で、全48ページが7章に分かれているのですが、改行は 6回(!)しかありません。すなわち一章まるまる行変えなしに延々と文が続くのです。さらにその一章が、まるまるワンセンテンスなのです。つまり一つの章に句点「。」は、最後に 1個あるだけという、一種前衛的なスタイルなのですね。これにおそらく若いころはついていけなかったのだと思います。見た目、文章の塗り壁状態ですから、まださほど本を読み慣れてない読者(=私)には、ストレスだったと思われます。

 今回も、最初はなかなか頭に入ってこなかったのですが、状況がわかってきてからは、全然気にならなくなりました。
 ただ、いわゆるツララ文とはまぎゃくな、空白の全くないページが続くわけですから、48ページといえども、普通の作家の文章だったら70~80ページに相当するはずです。
 実際、私も中編小説を読み終ったという読後感でした。

 さて、本篇の主人公は、タイトルにあるように井原西鶴です。つまり、当時小説という概念はなかったので小説家とはいえないかも知れませんが、いわゆる作家であったことは間違いありません。
 本篇の西鶴は、まだ世の介もののアイデアを思い付いたころで、本篇が描く時代は俳諧師として名をなしていました。収入は俳諧の師匠として大阪の富商を弟子にして得ていた。それを現実に即して言えば、師匠であると同時に、幇間的な立場でもあった。西鶴は広い知識があり会話も当意即妙で、テキトーにおだててくれる、宴席には必要不可欠な人材として、富商たちに大いに重宝されていたのです。

 当時、西鶴を贔屓にしていたのが高安の大尽でした。この若旦那はもともとは田舎もので遊びに縁がなかったのが、ひょんなことで道楽にハマってしまいます。元が堅物だったのがそうなると身代を潰すまで止まることはないのですね。西鶴はそんなことはとっくにお見通しですが、別に諫言したりはしません。つぶれるまでおだてて、そのおこぼれにあずかるだけの話しです。
 その高安の大尽が、西鶴と関係にあった住吉屋の薄雲太夫を見染め、身請しようとする。薄雲太夫も次第になびいていく。西鶴は、その太夫の気持ちもよくわかるのです。その辺が結局「作家」なのですね。

 本篇の意図の一つに、西鶴に現代の作家(≒著者自身?)を見る、ということがあると思われます。作家とは何か。それはつまるところ「視者」であるということですね。自らは動かず、ただ視て、解釈する。冷徹なほどの視者として描かれる。
 ただ、それと同時に、作家ですから、他者に感情移入し共感するセンシティブな感性も持ち合わせている。自分の娘の死に直面しての態度には、その二面性がよく出ています。

 三年後、西鶴は生玉の夏祭りの金魚屋で棒振虫(ボウフラ)売りの男を見かけ、おやと思う。それは身上を潰し姿を消した高安の大尽の変わり果てた姿だったのでした……。
 ここから物語は一気に加速します。
 嫌がる元高安の大尽に、根っからの詮索好きからいろいろ聞き出すと、薄雲太夫と暮らしており子供もいるとのこと。ある時点で腹を据えた高安の大尽は、西鶴を家まで連れて行く。そこは源聖寺坂を下った長町あたり(現在の日本橋。江戸時代はスラム街だったようです)の劣悪な裏長屋だった。太夫は奥に引きこもってしまって、出てきて挨拶しようともしない(西鶴にはかつての売れっ子大夫でしかも西鶴より大尽を選んだ薄雲の落魄した姿を見たいという欲望があった)。しかし上り框で待たされている間に、次第に彼らのためになんとかできぬかと思い始める。なにがしかの金銭を包んで置き、長屋を去る。しばらく歩いていると、後ろから追ってくるものがある。振り向けば、それは今置いてきた包みを握りしめた薄雲大夫その人だった……

 ここからラストへ至るゆくたてに、見覚えがあります。私は本篇を読んだことがあるのでしょうか。解説によれば、著者は「『西鶴置土産』の「人には棒振むし同前におもはれ」の章を直接利用し」ているとあります。そのあらすじを検索しますと、確かにこのラストになっています。私は『西鶴置土産』を読んだことがあるのでしょうか。いやそれはありえないです。いまふと思ったのですが、光瀬龍の時代SF短篇にこのラストがあったような気がしてきました。それもいま無意識が思いついた偽記憶なのかもしれません。
 いずれにしても、とても印象的なラストではあります。

 

ガーン!!

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月18日(木)01時42分21秒
返信・引用 編集済
   ガーン ! またやってしまいました。
 今度のチャチャヤング・ショートショート・マガジン 4号に、私は 10枚の作品を 2篇提出するつもりで、どちらもテキスト文書の下書き(ほぼ完成、あとは推敲するだけ)はできていて、まず、そのうちの 1篇を今日(文章を推敲して)一応完成させました。雑誌の書式にカスタマイズしたワード文書に保存したのです(すべての作品をこうしておけば、あとはそれらを順番を決めて並べるだけで下版になるわけです)。
 それで二つ目の推敲に取りかかろうと、2本目の下書きのテキスト文書を Wordに流し込んだのですが、この時、完成させたばかりの一本目のWord文書に上書きする方法をとったのです。
 なぜなら当該 Word文書は、雑誌の書式にカスタマイズしてあるので、それを流用しようとしたわけです。
 これは、いつもやっている方法で、保存するときに、別のタイトルで保存すれば、何も問題ありません。ところが今回、うっかり「上書き」してしまったのです。
 当然、完成させたばかり最初の作品は、上書されてあっけなく全部雲散霧消してしまいました。
 ガーン!
 何とか復元することはできないものか。そこで思い出したのが、定期的に自動で行われているバックアップでした。これを使えば、数週間前のデータになりますが、復元できます。当然バックアップ後に手を加えた部分は戻りませんが、まるまるゼロからやりなおすのと比べれば、格段にラクなはず。
 ホッとしてバックアップを開いてみました。ところが当該 Word文書が見当たらない。そこで気がついた。
 私は創作関係のデータは PCがクラッシュしても安全なように、USBメモリーに保存していたのですね。この創作文書保存USBメモリーは、PCのUSB端子に常時差し込んであるのです。ところが、バックアップは PC本体内のみをバックアップするのでした。常時差し込んであるので、何となく本体に保存しているようなつもりになっていましたが、USBメモリーに保存されたデータは、バックアップされていなかったのでした。
 結局、データを復元させることはできず。アーア(ーー;
 一からやり直すか(やれなくはないがメンドくさい)、今回は一本だけにしておくか、ただ今考え中 ……とまあそういう次第で、皆様もどうぞくれぐれもお気をつけ下さいね。そんなバカは私だけですか。失礼しました(汗)

 

「大阪文学名作選」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月15日(月)21時34分24秒
返信・引用 編集済
  > No.7206[元記事へ]

 『大阪文学名作選』に戻って、小野十三郎「大阪(抄)」を読みました。
 小野十三郎、初めて読みましたが、いやびっくりしました。すごいイメージ喚起力です。初刊本の発行が昭和14年なので、実際にこれらの詩が書かれたのはそれ以前、昭和10年代のはじめ頃でしょうか。当時の大阪の沿岸部の重工業地帯が詩人の眼で描かれます。
 調べたところ、明治30年に大阪港の築港工事が本格的に始まる。これで発生した浚渫土砂を用いて安治川・尻無川・木津川沿いに臨海埋立地が造成されたようです。大正区の場合、埋立てで船町、鶴町、福町、鶴浜の全部と南恩加島、平尾の一部の地域が新たに生まれ、大正末期にほぼ完了、ほぼ現在の大正区の区域が確定したとのこと。
 新たに生まれた埋立地に重工業地帯が形成されたのですが、工場群は埋立地の海岸沿いに建設されます。その結果、工場地帯の背後の埋立地は手つかずで、広大な葦原が広がっていたのです。
「広いなあ。/枯れてるね。去年もいま頃歩いたんだ。」「向ふのあの鉄骨。どこだ。/藤永田造船だ。駆逐艦だな。/澄んでるね。/荒れてるよ。行つてみよう。」(「早春」)
「遠方に /波の音がする。/末枯れはじめた大葦原の上に /高圧線の弧が大きくたるんでゐる。/地平には /重油タンク。/ 寒い透きとほる晩秋の陽の中を /ユーファウシャのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され /硫安や 曹達や /電気や 鋼鉄の原で /ノヂギクの一むらがちぢれあがり /絶滅する。(「葦の地方」)


 バラードを髣髴とさせる風景ですね。いやむしろ井上光晴か。
 解説に、「さらに西には、地盤沈下で海中から煙突がそびえる大谷製鋼等のある尼崎臨海工業地帯」という一文もあり、海中から煙突がそびえるって、どんなSF的風景かと思っちゃいます。
 たしかに「道頓堀界隈の芝居町、色町の大阪とはかなり違った景色」でありますが、これもまた大阪。いわゆる湾岸区の過去の一風景なのですね。

   北港海岸
 島屋町 三本松
 住友製鋼や
 汽車製造所裏の
 だだつぴろい埋立地を
 砂塵をあげて
 時刻(とき)はづれのガラ空きの市電がやつてきてとまる。

 北港海岸。
 風雨に晒され半ば倒れかかつたアーチが停留所の前に名残をとどめてゐる。

  「来年まで休業――」
 潮湯の入口に張り出された不景気な口上書を見るともなく見てゐると
 園内のどこかでバサツバサツと水禽の羽搏きがした。
 表戸をおろした食堂、氷屋、貝細工店。
 薄暗いところで埃まみれのまゝ越年する売残りのラムネ、サイダー、ビール罎。

 いまはすでに何の夾雑物もない。

 海から 川から

 風はびゆうびゆう大工場地帯の葦原を吹き荒れてゐる。


 

「おおきな一枚の布」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月15日(月)14時07分12秒
返信・引用 編集済
  > No.7209[元記事へ]

 服部誕 『おおきな一枚の布』(書肆山田、16)読了。

 よかったです ! 久しぶりの詩集、23篇収録。堪能しました。
 散文詩ということになると思うのですが、そのかなりの作品がショートショートとして読めます(私には読めました)。
 これは単に個々人でみな少しずつショートショートとか詩とか意味するものに対する、意味されたものの範囲がずれているということで、本作品集を詩集とみるなら、海野さんがブログに公開しているショートショートのほとんどは詩(散文詩)になるでしょう。

 内容は三部に分かれています。
 最初のかたまりは、おそらく執筆された時期も一番古く、まだ会社人として現役だったころの作品ではないでしょうか。もしくは現役だった時の気持ちになってつくられたものかもしれません。

「暗い部屋」、草臥れはてて帰宅した時には家人たちはとっくに寝ている。洋服箪笥のある部屋で、電気をつけようとすると、古い家屋ゆえ体重で部屋が少し傾き、洋服箪笥が勝手に開く。そこには社会人になって以来買い求め溜まってしまった、それなりの数の背広がぎっしりと吊るされている。それらはみな首のない人間のかたちに吊るされている。

「土曜の夜からまっさかさまに」は、多忙な一週間がやっと終り、疲れ果てて終電で帰宅した土曜の深夜、鍵を開けそっと家に入ると、台所のテーブルのすべてのものが逆さまに、底を上にして置かれている。まさかと思いながら、寝室の戸を開け妻の名を呼んだ途端、大きな蝙蝠が一匹、バタバタと狭い廊下を逃げてゆき、入口のドアにぶつかってバサリと落ちた。かすかな舌打ちのような、蝙蝠の鳴き声が聞こえる。(※注によると、大型の蝙蝠は反響定位を行わないそうです)

 第一群はこんな感じ。

 第二群は、著者にとって大変重要な過去の事件がテーマ。

「六歳としをとった」と「キュウリとソバのアレルギー」は連作。後者はある意味まさにキレッキレのオチショートショートといえる。久しぶりに会った人は昔のまま全く年をとっていないように見えた。キュウリは苦手だと突き出しを私の方へ押しやってくる。アレルギーなのですか、と聞くと、御巣鷹の森を抜けてからそうなったという。28年ぶりの再会なのだ。私は昨夜、それとは知らずに残さず食べてしまった、独特の食感を出すためにソバ粉を練り込んだ韓国風冷麺が、今もまだ胸苦しい。

「阪神電車から見えるちいさな家の裏窓」、敷設した後に街ができた阪急と違い、すでにある街なかを縫うように敷設された阪神の車窓から見えるのは民家の、洗濯物が干された裏庭や裏窓だ。そこは表から隠された場所。と住民たちは思っているが、車窓からは丸見えなのだ。そのことに住民は気づいていない。彼らにとって裏を通過するのは阪神電車なのだ。覗いている乗客は見えない。父母はそんな線路際のちいさな家に住んでいた。1月17日になると阪神電車で墓参りに出掛ける。時間が止まったままの裏窓の奥に一瞬、通り過ぎていく電車をながめている父母を見る。しかし彼らの目には車窓の中は見えていない。

「二十年後の自画像」、電車を待っていた時、スピード写真のボックスができていることに気づく。それを見つけた瞬間、自分を撮ってみたい衝動。普段は徹底した写真嫌いなのに。出来上がったのは老いのあらわれた肖像。二十年前に死に損なった男の。
「だが印画紙一枚で証明されるのは /おれの〈死〉ではなく結句おれの〈生存〉でしかないのだ /なにかに腹を立てているかのような斜頸の自画像が /二〇一五年 一月十七日の朝に /記録される」

 第三群は定年退職後に(をテーマにして)書かれたものでしょう。

「鳥が笑った日」は懇意にしてもらった取引先の役員に最後の挨拶をするため、ビルの最上階まで透明なエレベーターに乗る。(いつものように)外の景色も見ず階数表示を凝視していると、鳥が笑った。信号が変りかけたので中央分離帯で立ち止まる。また鳥が笑った。鳥の声は子供のころに聞いたセキレイに似ていた。
「ながかったサラリーマン生活の最後の一日が終わった /思えば四十余年ものあいだ / 日に何度もエレベーターで上り下りし / そのたびに階数をたしかめていた /いつでも信号の指示にしたがって /律儀に立ち止まっていた」
 今宵私は夢を見るだろう。どこまでも伸びている一筋の輝く光の上を、鳥は笑いながら、飛び続けている。

 基本暗調が持続する本集の中で、この第三群は前ニ群に比べるとどの作品も明るく、解放感を感じます。学生時代収集していて、勤め出してからしなくなっっていたハンコ集めが復活したり(「ハンコを集める」)、サラリーマン時代得意先回りに乗るバスは気が重かったのが、今は楽しい。通り過ぎる建物や街路樹が手を挙げて私に会釈するように感じられる(「バスの走る街」)。
 ことにも「三番目の居場所」が、ナチュラルに明るくてよいです。仕事帰り、ハイボール一杯だけの寄り道、とありますから、設定はサラリーマン時代なのかもしれませんが、この第三群に含めているのですから、著者も気分は「毎日が日曜日」(あとがき)で書かれたものでしょう。500円玉 1個握りしめてのお気楽なひとときです。

 そして ――
 会社を休んだ日のことを思い出した今日もまた
 いつもと変わらぬ木曜日
 もう会社に行かなくてもいいし
 わたしに話しかけてくる人も誰もいなくなってしまったけれど
 [……]
 やっぱりふとんのなかで
 わたしは耳をすましている  (「会社を休んだ日」)


 

火星の落日訂正版

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月14日(日)19時05分45秒
返信・引用 編集済
   斎藤さんの最新ブログを読んで(ただし沢田聖子コンサートの下の記事です)、うっかり忘れていたことを思い出しました。
 先日アップした「火星の落日」です。
 アップして数時間後に、聴き返した、というよりも、アップしたのを初めて自分で聴いたのですが、なんか音が悪いなあ。
 あ、そうだ、と気がついた。それは作成に使ったウインドウズ・メディアプレイヤーで直近(といっても数週間前で、だから忘れていたわけですが)にきいていたのが、ラジオドラマの録音だったことです。
 近年耳の老化が進行して、録音した人の声は、ちょっとこもって聞こえるのですね。その分聞き取りづらくなっているのです。
 で、音声を再生するときはメディアプレイヤーのイコライザーを高音強調にしておくのです。そうしますと耳的にはストレスが少ない。
 そうしていたのをすっかり忘れていて、高音強調設定のまま、火星の落日をユーチューブ化してしまったのでした。
 だから潤いのない音になってしまったのです。
 で、あわててイコライザーをナチュラルにして録り直し、ツイッターは訂正したのですが、それで安心してしまって、こっちは完全に失念してしまっていた。
 そのことを、斎藤さんの当該書き込みを読んだ時、卒然と思いだしたという次第。
 いやまあ、斎藤さんのレベルとはケタ違いに低レベルな話なんですけれど(^^;。
 でもそのおかげで、早速先日アップしたのを正しいのと差し替えることができました。
 いやー極めて人跡未踏の地ではありますが、それでも一日若干名の方が訪れてくれているわけで、そのなかには出来心で聴いてくださる方も、全然いないわけではありません。感謝感謝であります。
 というわけで、訂正版をここにも置いておきますね。
 ところで昔の手慰みをなんで今頃またアップする気になったのか、実はこの画像をネットで見つけた時、突然脳内にこのメロディが鳴り始めたのです。
 つまりこの画像の風景が、脳内アーカイブに眠っていた「火星の落日」のメロディを起動した。私の裡で、なんやしらん玄妙なメカニズムが働いたんですね。そのことは、まあ記録しておいてもいいかな、と。本当はもっとましなのを新たに作りたかったのですけど、時間も気力もなかったのでした(汗)

 
 
 

「味園ユニバース」を観ました

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月14日(日)01時24分54秒
返信・引用 編集済
   映画「味園ユニバース」を見ました。
 大阪のサラリーマンなら、一度は宴会に利用したことがあるはず、あの味園ビルです。
 私も何度か利用していますが、実はいいイメージがありません。というのは、ある年の会社の同期忘年会がここでありました。終わりも間近になって、私、気分が悪くなってしばらくトイレにいたのです。出てきてビックリ。宴会場は無人でシーンとしているではないですか。なんと、私がトイレに居る間に宴会が終了し、みんな帰ってしまった後だったのでした。同期70人もいたので、影の薄い、目立たない私がいないことに、誰も気づかなかったのでした(ーー;

 えー、お話戻って、この味園ビル、かつてはキャバレーユニバースというのがあったらしいですが、いま、味園ユニバースといえばライブの貸しホールなんだそうです。
 主人公は天王寺あたりのケチな暴力団の下っ端で、傷害事件を起こし臭い飯を食べていたのですが無事刑期を全うして出てくる。ところが出てきた途端何者かに滅多打ちにされ記憶を失う。ふらふらとさまよっているうちに広場でコンサート中(というより歌謡演芸に近い)の赤犬というグループの舞台に入り込んでしまう。そして朦朧状態のまま、突然、ボーカルのマイクを奪い、圧倒的な声量で歌い始めたのです。
 それがきっかけで、主人公は記憶を失ったまま赤犬のマネージャーかすみの自宅兼カラオケ屋兼スタジオで(ポチオと名付けられて)働き始め、そのうち赤犬にボーカルとして参加することになる。
 美園ユニバースで単独ライブが決まり、明日がいよいよ本番という日、いろいろきっかけあってポチオは記憶を取り戻す。
 記憶とともに昔の性格も戻り、ポチオはかすみの家を飛び出す。
 暴力団のもとに帰った主人公は自分を襲ったのが実はそのボスであることを知るが、水に流すかわりに仕事を与えろという。
 赤犬のコンサートはポチオ抜きで始まり、その頃、ポチオはボスに指示された場所へ到着するのですが……

 ここがわかりません。ボスとかすみのあいだで取引があったのでしょうか。
 そういえば、キャストによれば、かすみの祖母役の名前があるのですが、出てきた記憶がありません。私が見たDVDはカットされているのかなと思いましたが、ネットで確認した上映時間は103分で、DVDと同じなんですね。うーむ。
 もうひとつ、味園ユニバースでのコンサート、第一部が終わりメンバーが楽屋に戻ってくるとポチオがいるのですが、それをみた正ボーカルがくるりと舞台に戻っていき、舞台から観客席にダイブして怪我をする。これはおそらくポチオに第2部のボーカルを譲る。それはそうしなければポチオはボーカルを受け入れないと思ったからに、私は違いないと思います。ポチオの出現以降、このボーカルはひどい仕打ちを受けつづけてポチオを良くは思ってないはずなんですが、だからこそこのダイブは、私には感涙モノでした(そう解釈しない人もいると思います)。
 という人情路線を認めるならば、ボスとかすみの間に密約があったという解釈も、認めていいのではないでしょうか(^^;

 いや大変面白く、満足しました。

 ところで映画の舞台ですが、かすみの家はおそらく大正区と考えられます。それは運河越しに環状線が見える(あ、あのへんかなとすぐ察しがつきます)のと、次の映像によります。
 
 私、あっと思いました。なぜなら先日柴崎友香『ショートカット』読み中に、木津川水門付近をグーグルマップで眺めていたのでしたが、同じ場所じゃないか、と思えたからです。
 ここです。大和鋼業株式会社。
 
 でも右側が違う。
 次は同じシーンでカメラの位置が変わる。
 
 あっ、建物が消えて更地になっています。
 地図も右に視点を変えてみます。
 
 ほら。てことはつまり最初の映像は合成なのではないでしょうか。

 同じくこの映像。
 
 見た瞬間、これは弁天町駅の北西の線路際だな、とわかりました。
 地図を見ますと、東洋紙業ありました。
 
 でもちょっと違います。これも合成でしょう。
 それに大正区三軒屋と港区弁天町は遠くはないですが、隣町でもありません。不自然です。
 やはりロケハンしてイメージに合う場所をつまみ食いしているんでしょうね。そして合成もしている。007は二度死ぬの日本ほどではないにしても、やっていることは同じですなあ(>おい)(^^;



 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月13日(土)18時26分26秒
返信・引用 編集済
 

 

詩集「おおきな一枚の布」拝受

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月12日(金)14時47分51秒
返信・引用
   書肆山田より著者代送として、服部誕 『おおきな一枚の布』が届きました。服部さん、ご恵贈ありがとうございました。
 

 詩集です。久しぶりの詩集。あとがきによりますと、25年ぶりらしい。楽しみ (^^) あとでじっくりと読ませていただきます。

 なお既刊の 2冊はこちら。
 
     1986年10月24日発行             1992年11月5日発行

 服部さんからは、今度の《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》用として、すでに80枚の力作中篇が届いています。こちらもいいですよー(^^) ご期待頂きたいと思います!!
 他のメンバーからも続々と力作快作が集まってきており、うまくいけば現在着々と進行中の《西秋生夢幻小説集》との同時刊行も夢ではないと思っているのですが (^^ゞ

 

織田作「終戦前後」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月12日(金)01時34分56秒
返信・引用 編集済
   今日は大阪で用事があって、生中2杯、場所を変えてウイスキーのストレート(チェイサーあり)2杯と、そんなに飲まなかったばかりか、十時半にはすでに帰宅していたのですが、この時間(1時前)になってもまだ酔いが残っています。
 弱くなったのか、それともこれくらい以上は、いくら飲んでも結果は同じ、ということなのでしょうか (^^;。
 電車の中で読んでいたのは、青空文庫から落とした織田作「終戦前後」。1945(昭和20)年11月雑誌掲載のエッセー(?)です。終戦からわずか 3カ月後、ということは書かれたのは終戦直後から九月にかけてでしょう。ごく早い時期なのに、否、だからか、辛辣で非常に面白い。

「標語の好きな政府は、二三日すると「一億総懺悔」という標語を、発表した。確かに国民の誰もが、懺悔すべきにはちがいない。しかし、国民に懺悔を強いる前に、まず軍部、重臣、官僚、財閥、教育者が懺悔すべきであろうと思った」
「ある種の戦争責任者である議会人が、さきに御用論説の筆を取っていた新聞の論説委員が、にわかに自由主義の看板をかついで、恥としない現象も、不愉快であった」
「だが、私たちはもはや欺されないであろう。私たちの頭が戦争呆けをしていない限り、もはや節操なき人人の似而自由主義には欺されないであろう」


 どうなんでしょう(>おい)(^^; それにしてもこの簡単に豹変して恥と思わない日本人って、何なんでしょうねえ。今も昔も ……

 元ツイート

 

「はん」と「さん」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月11日(木)13時59分27秒
返信・引用 編集済
  > No.7205[元記事へ]

 いま元記事を読み返していて気がつき、元本を確認し、あわてて訂正したのですが、「御家(おえ)さん」と記したのは写し間違いで、正しくは「御家(おえ)はん」でした。
 大阪ネイティブスピーカーであったら、間違うはずのないミスです。
 もちろん「さん」と「はん」の使い分けの法則は私の中に知識としてあります。しかし無意識化されてないのですね。「おえ」ときたら何も考えずとも「はん」と続けるのが、大阪弁を母語として内在化しているネイティブスピーカーなのです。
 つまり私の中に、大阪弁は、もはや母語としては存在していないということなんですなあ(ーー;

 それから、これも訂正したのですが、「嬢(とう)はん」と記していました。ただしこれは上記のような写し間違いではなくて、著者の書きミスです。正しくは「嬢(とお)はん」と記述しなければなりません。
 山崎豊子も大阪ネイティブスピーカーではなかったのか?
 逆です。
 この書き間違いこそが、著者の大阪弁ネイティブスピーカーであることを証明しているのです。
 つまり著者は、それを書いたとき頭の中で文法を参照していないということが、これでわかるからです。
 母音「i」「u」や「n」に続くとき、「はん」は「さん」となることをすでに体で覚えている、文法で覚えているのではないということです。
 文章で書く場合、「とはん」と書かなければ正しくない(私の当該箇所は引用ではないので修正しました)のですが、それをうっかり「とはん」と記述してしまったのですね。
 ですからこの書きミスをしたことが、逆に著者の母語が(書物からではなく聴き覚えた)大阪弁であることを如実に表しているわけです。

 

「大阪文学名作選」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月10日(水)21時10分45秒
返信・引用 編集済
  > No.7205[元記事へ]

 織田作之助「木の都」を読みました。
 タイトルだけ見たら、古代紀氏をテーマにした歴史小説かと思いますが(思いませんか失礼しました>汗)、本篇は久しぶりの〈大坂〉すなわち上町台地小説です (^^;

「そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育った私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを、「下へ行く」といっていたけれども、しかし俗にいう下町に対する意味での上町ではなかった。高台にある町ゆえに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といったような意味も趣きもなかった」「もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育って来たのである」

 音声入力だと、いくらでも引用してしまいますなあ(>おい)(^^;

 閑話休題、主人公の私はこの坂の町で育ったのですが、京都の旧制高校に入り、しかも在学中に両親を失い、住んでいた家を畳んでしまうと、もうほとんどこの町とは没交渉になってしまいます。
 しかし区役所へ出かけなければならない用向きが生じます。くちなわ坂の名前の通り蛇のごとくくねくね木々の間を縫って上る古びた石段の坂をのぼり、10年ぶりに訪れた町は、変わっているところもあれば、変わっていないところもあった。
 そういうふうに、道沿いの店舗を見ながら歩いていると、表札屋の隣にあった(よく利用した)本屋がなくなって、そこには「矢野名曲堂」との看板が掛かっていたのです。
 区役所に行くまで時間があったので、私はその店に入ってみます。そこは古い名曲レコードの売買や交換を専門にやっている店のようでした。出てきた主人の顔を見て、おや、と思います。見覚えがあるような気がして仕方がないのです。
 何枚かレコードを聴き、何枚かのレコードを購って店を出ようとすると、雨だった。やむのを待っていたら本降りになった。主人が傘を貸してくれました。
 区役所の帰り、たたんだ傘の矢野という印が目にとまり、ああ、あの矢野だったかと、私は初めて思い出します。
 京都の学生街に矢野精養軒という洋食屋があった。そこの主人が、今傘を借りた矢野名曲堂の主人と同じ人だったのです ……。

 ここまでがいわゆる起承転結の〈起〉にあたるでしょう。この後私はこの主人と懇意になり、頻繁に坂の上の町に通うようになります。そしてこの主人の家族に、戦争が濃い影を落としていくのを目の当たりにするのでした。

 いや絶品でした。文章も素晴らしい。織田作、実は有名どころしか読んでいません。体系的に読んでみたくなりました。ラストの段落の感性など、ちょっと西秋生を想起させられました(^^ゞ

 

「大阪文学名作選」(5 )

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月10日(水)00時13分45秒
返信・引用 編集済
  > No.7204[元記事へ]

 山崎豊子「船場狂い」を読みました。
 船場とは、北は土佐堀川、西は西横堀川(現・阪神高速1号環状線北行き)、南は長堀川(現・長堀通)、東は東横堀川(現・阪神高速 1号環状線南行き)によって囲まれた大阪の中心部で、江戸時代以降、大阪の富商の集まる街でした。

 そこでは奥さんは御寮人(ごりょん)さん、女隠居は御家(おえ)はん、男の子はぼんぼん(兄弟が多ければ兄ぼん、中ぼん、小ぼん)、女の子は嬢(いと)はん(姉妹が多ければ嬢(とお)はん、中嬢(なかいと)はん、妹嬢(こい)さん、という風に呼ばれました。それは船場の中だけで許される呼称で、橋一つ越えた、例えば土佐堀川にかかる肥後橋を北に渡ってしまえば、上記の呼称は使えなかったのです。
 これから分かるように、船場の人間は独特のエリート意識があったみたいですね※。

 主人公の久女は、この肥後橋の近くの堂島中町に生まれた。子供のころ、難波神社の夏祭りのお稚児さんが、船場の家からしか選ばれないことに気づく。船場が特別な地区であることを知った主人公は、いつか船場の商家に嫁ぎ、御寮人(ごりょん)さんと呼ばれるようになりたいと心に決めます。女学校も府立に行けるのに、船場の子女が多く行く聖徳高女に、親を説得して入ります。卒業後もことあるごとに船場に嫁かせてほしいと親に懇願します。

 ところが親は、そんな古い格式ばった、しかも内実は奥内で売り買いし、粥を啜るような暮しをしている貧乏華族みたいなところもあるんやと諭し、西横堀川をへだてて船場と隣接する京町堀の小間物問屋に嫁がせてしまいます。
 そこでも主人公は、生まれた子をぼんぼん、いとはん、こいさんと呼ばせ、店も船場ふうな店構えに変えてしまう。そんな主人公を夫も嫌がって、離縁話も出たのですが、そんなこんなのうちに、夫が亡くなる。

 こんな性格の主人公ですから、商売には向いていて、店は夫の時より大きくなる。そうなると、もっと船場に近づきたいというわけで、より川幅が狭い(笑)長堀川にかかる佐野屋橋南詰の鰻谷西之町に新しく店を構えます。
 その場所はいわゆる島之内に当たり、船場に次ぐ商いの一等地なのです。が、船場ではない。
 ちょっとでも船場と関係を持ちたい主人公は、船場にお茶のお稽古に通っています。そこで知り合った順慶町の商家の後妻と、同じ方向だからと帰ってきます。

「おおきに、わてとこ、ついそこでござりまんねん」「ほんなら、わてはここでご免やす」「あんさんも、すぐそこの佐野屋橋でっしゃろ、わてとこのお竹どんにお店まで、お送りさせまっけど」「いいえ、結構だす、わてとこは、佐野屋橋を渡って、向う側の南へ入ったとこだすよって」
「へえ、ほんなら、橋向うの鰻谷西之町でっか」こう云うなり、急に狐のような白い顔を、冷たく権高に構え、「お先ぃだす、さいなら、ご免やす」ついと背中を見せ、女中と丁稚を促すようにして、順慶町の角を曲って行った。


 今で言えば、御堂筋の鰻谷交差点の西側あたりですよ。大丸心斎橋店の向かいです。そんな一等地に進出した主人公ですが、船場の人間からすれば、格落ちと認識されてしまうのですねえ。

 主人公はさらに対抗心を燃やします。というか、「船場狂い」がさらに高じていく。
 ついに、娘を瓦町の没落紙問屋に嫁がせる。そこは船場の東のはずれではありましたが、確かに東横堀川の西岸、船場の内に間違いなかった。

 ところが、娘が嫁いで2年目、夫が応召、その7カ月後、大阪最初の空襲で、船場は一夜のうちに焼き払われてしまう。娘とその子供(孫)のみ、たまたま実家の鰻谷に帰ってきており、広い御堂筋に避難して助かる。娘と孫はそのまま鰻谷で暮らし始める。終戦後 1年半目に、娘の夫が帰ってくると、主人公はその尻を叩くように、焼け野原となったかつての店の土地に、新しい店を建て、自ら乗り込んで商売を復活させます。自分の店はほったらかしです(息子がいますが)。
 ついに主人公は念願だった御寮人(ごりょん)さんと呼ばれるようになったのでした。

 月の1日、15日には、氏神詣りをして、その帰りには、きまって円山小間物店へ寄ったが、気持ちよく迎えられなかった。それは、久女が、息子の清一夫婦に向ってでも、まるで、もう、何十年も前から船場に生まれ、育ってきたようなもの云いや、態度をするからだった。そのうえ、帰り際になると、必ず、清一の嫁に佐野屋橋の橋際まで送らせ、
「ほんなら、わては川を渡って、船場へ帰りまっさ」
 と、思い入れたっぷりで、ちゃら、ちゃら、橋を渡って行くからだった。


 しかしその船場は、空襲の焼け野原となった後、戦後またたく間にxx株式会社出張所、△△合同商工などという、看板を掲げたブロック建築で埋まり、かつての船場は影もかたちもなくなってしまっていた。旦那はんや御寮人(ごりょん)さんなどという船場風の呼び名はもはや死語となっていたのですが ……(^^;

 解説にこう書かれています。
「いわゆる「大阪もの」で鼻につくところがあるとすれば、書き手が「船場・島の内」的なものの内部にいて、その「文化」にどこかで陶酔していることだったが、この小説にはそれがない」

 ※どうやらこの意識は、阪神間ブルジョアに受け継がれたのかもしれませんね(^^ゞ
 

「大阪文学名作選」(4 )

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 9日(火)01時56分1秒
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  > No.7199[元記事へ]

 庄野潤三「相客」を読みました。昭和32年〈群像〉掲載。
 話者の「私」は著者。本篇で私によって語られる次兄は、実際の次兄である庄野英二とのこと(解説による)。
 本篇は小説技巧的な面白さがあって、それが評価されているのかも知れませんが、それについては割愛。
 戦後、南方で俘虜生活を送っていた次兄が復員してくる。次兄は戦争中に、ジャワの捕虜収容所の副官をしていた。それが警察に知られ、戦犯の容疑者として連行される。翌日の夜行で東京へ移され、巣鴨拘置所に入ることとなる。
 私はその兄に付き添っていくことになる。兄のほかにもう一人連行される人がいて、超満員の夜行の相席となる。
 その人は、スマトラの飛行場大隊長だったのだが、自分が留守の時、捕虜が脱走を図り、処刑される。そのことを追及されるのだろうと語る。自分が留守だったことを証明してくれる人がいれば問題ないのだが。
 それ以前に私は次兄から、捕虜収容所で、ある捕虜にささやかな恩恵を施してあげた話を聞いているのですね。うーん。
 解説にあるように、「人間の運命の奥をのぞかせる」話になっています。玄人筋を唸らせるとはこういう作品を言うのではないでしょうか。

 

岡本俊弥の新作

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 8日(月)22時02分6秒
返信・引用
   岡本俊弥さんの新作 「人事課長の死」を読みました。21枚。
 著者はこのところ月一作のペースで、コンスタントに20枚前後の作品を発表しており、今回が 12作目とのこと。
 あれ、11作目は ? と思ったら、前月号の後半に掲載されていたのですね。うっかり見落としていました。またあとで読ませていただきます。
 それにしても、もうすでに作品集が一冊編めるのではないですか ! まさにニュー岡本と呼びたいです(^^;

 さて本篇ですが、労基法が変わって、正社員の解雇に双方の合意が必要でなくなった近未来(現未来か)、主人公の人事課長に解雇の通告。
 この時代、どの会社も人事考課は GSと略されるグラリ定量化人事考課システムが導入されている。これはグラリ社が開発した人事考課ツールで、けた外れの多次元分析を行い、したがってその解析結果は人間には到底トレースできません。判定することができないのですから、その結果は絶対値です。お情け等の入り込む余地はありません。
 先般、囲碁のアルファゴーの打つ手が、人間には理解できない(なのに勝つ)ことが話題になりましたが、まさにその人事考課システム版ですね。

 昨日まで、GSの結果を該当者に伝えるのが仕事だった主人公、今度は部長から同じことをされたわけです。ただ主人公はある意味エキスパートだった。それは馘首の通告を、当人に反発やトラブルなく受け入れさせる能力があった。
 つまり人事係とすれば極めて優秀なわけなのですが、GSの解析結果は人間にはブラックボックスなので、反論する余地もありません。そんなことは先刻承知の主人公ですから、馘首を甘んじて受け入れざるを得ません。
 そういうわけで、主人公はフェアワークセンターへ再就職の相談に訪れる。そこで推薦された仕事とは ……

 いや面白い ! なるほどタイトルはそういう意味でしたか (^^;

 

Hugo Gernsback(1884-1967)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 8日(月)01時06分39秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 7日(日)20時52分16秒
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音声入力その後

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 6日(土)23時42分37秒
返信・引用
   右肩の調子はかなり改善しました。一時は電気がビリビリ走り、何とも言えない気持ち悪さに悶絶したこともありましたが、この頃は普通の姿勢だったら気にならなくなっています。ただ朝起きるときが問題で、これは寝ているときの姿勢が、今の肩の状態にはあまり良くないのでしょう。
 とりあえず、キーボードを打つのはさほど苦にならなくなったのですが、音声入力の楽チンさに慣れてしまった私は、ちょっとこの入力方法をほかに代えたくなくなってしまいました (^^;。
 いやホンマに楽なんです。しかも当然ですが打ち間違いというのがあり得ない。もちろん聞き間違いはあるわけですが、わたし的には聞き間違いを訂正する方が格段に楽です。打ち間違いの場合は目が何度も画面とキーボードの間を往ったり来たりします。これが意外に苦痛なんです(ブラインドタッチができれば、また違うかもわかりませんが)。
 聞き間違いの訂正は、口で行うので、目は画面を見たまま動かさなくてもよい。余人は知りませんが、私の場合目が悪いのでしょうか、一度動かすと戻すのに、一瞬ですが元の場所を探しているのですね。これが案外ストレスなのです。
 ただ時間的には、まだ手打ちの方が早いと思います。しかしこれは慣れと、聞き取りAIが、私の発音癖と私の語彙をだんだん把握していくでしょうから、改善されると思っています。
 とはいえ、小説を書くときに口述が有効かどうか、これはやってみなければわからない。文体が変わってしまいそうな気もしますなあ(笑)

 

「大阪文学名作選」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 5日(金)21時58分35秒
返信・引用 編集済
  > No.7197[元記事へ]

 河野多恵子「みち潮」を読みました。昭和39年〈文学界〉掲載。
 これは野坂作品とはまぎゃくな世界。
 主人公の家は商家で、都会の問屋街にある店と住居が同じ建物である家に住んでいた。主人公の少女は著者とみてさしつかえないでしょう。本篇では具体的な地名は全く出てこないのですが、ウィキペディア等を参照しますと、家は西道頓堀の椎茸問屋です。当時船場あたりの商家の人々の間では、
「店と住居を別にしたい、空気のよい郊外に住もう」
 という一大潮流がありました。
 そういう次第で、主人公の一家も、店まで 1時間足らずの郊外に居宅を求めます。時代は昭和11年です(著者が大正15年生まれで、本篇は主人公の少女が数え11歳の時の話というところから)。
 後述しますが、転居先は夙川です。これは、いわゆる船場地区から流入→阪神間ブルジョワジー成立という流れの一環と言えるでしょう(かなり後期ではありますが)。
 つまり主人公の家族は、まさに大阪の上流階級です。
 近所の没落したおばあさんが描かれるのですが、野坂作品のおばあさんとはえらい違い。ただし野坂作品は終戦直後の混乱期ですから、時代が違います。野坂作品のおばあさんも昭和11年ころだったら毅然としていたはずです。
 その意味では本篇の上品さは、時代に負われています(同じ大阪の商家でも、此花区伝法の富岡多恵子の一家とも全然違います)。
「今のわたしたちの生活が当たり前だとだけは思わないでね。普通じゃあないのよ、幸福すぎるのよ」

 新しい居宅は、これも具体的には記されていませんが、上記したように阪神間、夙川流域のようです。
 主人公は「日本一高いすべり台」がある遊園地へ遊びに行く。これがどこなのか、調べたらありました。ネットは何でも見つかります (^^;
 ここによりますと、甲陽遊園地だったようです。また香櫨園遊園地というのもあったみたいですね。甲陽園も香櫨園も同じ夙川の北と南じゃないですか。いやー昭和モダニズムを現出せしめた、当時の阪神間ブルジョワジーの経済的実力がわかりますねえ(^^ゞ

 そんな阪神間ブルジョワにも、戦争の影が次第にさしてきます。
《そのとき、塀の外から太い声がした。
「花火をしているのは、ここですか ?」
 少女は今の大きな音を思い出して、「はい」と言った。が、それを待ち構えていたかのように、太い声は言った。
「日本は戦争しているんだぞ」
 口調まで変ってしまっていた。「花火で火薬を無駄づかいして、日本が戦争に負けてもいいのか。絶対、花火はやめなさい。それが守れないような子は、日本の子供じゃない。守れるかどうか、今度また見に来る」
「つまらんことを言う奴もいるもんだ」座敷の中で新聞を読み続けていた父が、ぽつりと言った。》



 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 5日(金)17時33分43秒
返信・引用
   

          記事を読む。

 

「大阪文学名作選」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 4日(木)00時49分50秒
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  > No.7196[元記事へ]

 『大阪文学名作選』より、野坂昭如「浣腸とマリア」を読みました。昭和40年〈小説現代〉掲載。
 ある意味、SF作家の創作コンセプトとはまぎゃくな創作態度から生まれた作品ですね。SF読者もそうで、若いころはこういうのが苦手でした。今は逆に、こっちの方が好みになってきました。SFってやっぱり、基本優等生が書き優等生が読む小説なのでしょう。

 ところで、本篇の舞台は守口(北河内郡守口村)ですが、主人公の祖母が、裏の蓮池のレンコンをとろうとして※、泥に足を取られて身動きできなくなり、無事救出はされたのですが、それが原因で、以後腰が抜けてしまうという場面があります。
「とろうとして」を平仮名にしたのは、自生しているもの「取ろう」としたのか、農家が作っているものを「盗ろう」としたのか、判断がつかなかったからなんです。そもそもレンコンて、自生しているものなんでしょうか。

 調べました。レンコンて蓮の根なんですね(だから蓮根)(^^;。そういえば、わが生家の裏のどぶ(溝)にハスが自生していました。今思い出した。それに農産物としてのレンコンは、水田で栽培されているらしい(こちら参照)。
 けっきょく祖母がとろうとしたのは蓮池のレンコンですから、野生のそれということになります。つまり「盗ろう」としたのではなく「取ろう」としたのだと推理するのであります。

 閑話休題、いうまでもなくレンコンは河内の特産です。門真が特に有名ですが、河内レンコンと呼ばれるように、河内全体で栽培されていました。かつては城東区あたりも一大生産地だったらしい。
 上に水田と書きましたが、要するに泥湿地が栽培に向いている農産物なのです。河内平野はレンコン栽培に向いているのです。なぜか。
 上町台地の東側は、古代は海だった。そのうち西中島南方あたりで上町台地の先端と繋がってしまい、湖化します。大和川や淀川が土砂を運びこんできて最終的に泥湿地化する。これが東成郡です。上町台地の東に新たに成った土地という意味ですね。
 したがって、河内はそもそも水はけの悪い土地なんです。
 私は8090年代の前半、勤務していたのが平野区で、パートのおばちゃんが「10年前くらいまで大雨だと浸水していた」と言っていました。6070年代後半でさえ、そんな感じだったんですね。
 それがレンコン栽培に向いていた。というか蓮池があちこちにあったのかもしれませんね。

 ところで検索中こんな画像を見つけました。
 元サイト
 阪田寛夫がばあやの実家(中河内郡鴻池新田=現東大阪市)で乗って遊んだのは、おそらくこの舟に間違いないでしょう。

 

「大阪文学名作選」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 3日(水)00時05分24秒
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   <小説の中の大阪>シリーズは、富岡多恵子編 『大阪文学名作選』に着手。
 阪田寛夫「わが町(抄)」を読みました。「放送朝日」に連載された15篇の連作小説から、「上福島」と「河内」を抄出したもの。著者を読むのは初めてですが、ああこれはよいです。15編のすべてを読みたくなりました。

 「上福島」、大阪市福島区上福島は著者の本籍地ですが、住んではいなかった。親の店と工場があった。著者は子供のころ 2回その店に行ったことがある。それはどちらも祝い事があったからで、そのどちらでも三郎叔父さんの演説があった。大変話がうまく面白かったので、そういう役回りだったようです。本篇はこの三郎叔父さんの思い出話です。かなりユニークな一種の語り部的な人だったようで、
「上福島のあたりをむかしは餓鬼島と言うておった。ところが筑紫へ流される菅原道真公が、餓鬼島は不祥である、福島にいたせ、と仰せられたので、それから福島と呼ぶようになった」
「時代が下ってくると、船着場で有名な福島も、だんだんと泥沼に変わってきた。江戸時代に入って城代松平忠明は、このあたりを埋め立てて墓場をつくった」叔父さんはここで得意の「よた」を挿入した。「大阪駅あたりを梅田というのは、あれはウメタのまちがいや。沼をうめて、骨をウメタ」
 餓鬼島 →福島の伝承は、私も 記しています
 埋めた →梅田は、「梅田地下オデッセイ」にも書かれていますが、「骨を埋めた」語源説は、本文にあるとおり「よた」ですね(正解は「梅田地下オデッセイ」を読みましょう) (^^;。
 このように三郎叔父さんは、語り部は語り部でもトールテールなそれだったのですね。
 著者は叔父さんの語る話を筆記する役割だった。実は叔父さんはそんなエッセーを自ら店内報を発行して連載していたのですが、病気になって仕事を休むことになっても連載だけは続けていた。それで著者は月に一回、叔父さんの家を訪れて筆記していたのです。
 あるとき、叔父さんの話に大きな矛盾があったのだが、著者は借問しなかった。そしてそれが著者の筆記の最後になったのでした。

「河内」は、著者のばあやの思い出話。一代記にすれば長大な劇的作品になりそうな話を、著者は「見知っている」限りに限定してあっさりと書いていて、余韻を残します。
 ばあやの生家に著者は一度行ったことがあり、河内特有の泥沼を干拓してできた田圃の運河を平たい舟に乗って遊んだと記しているのですが、そういえば私も、門真辺の旧道を通った時、幅 2mもない川なのか運河なのか、平舟が舫っているのを見たことがあります。つい10年ほど前のことなんですが。(これは河内平野特有の風物ですね。当地和泉地方にはないと思います)
 

ヴァーチャル大阪水上散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月 2日(火)02時29分12秒
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   皆さん、グーグルマップのストリートビューで水上散歩できることを知ってはりましたか ?
 私も先日知ったばかりなのですが、ちょうど「泥の河」で屋形船が停泊していた湊橋のたもとあたりに、ストリートビューの人形を移動させてみてください。
 川のまんなかに、通路を示す線が現れます。そこに人形を乗せます。
 わ、船に乗ってしまいました。
 
 甲板に椅子が並んでいるところをみますと遊覧船でしょうか。
 それはさておき、安治川を下りましょう。
 左手に天保山の大観覧車が見えてきました。
 
 中央突堤をぐるりと回りこみ(その海底には地下鉄中央線が走っています)、咲洲とのあいだの海峡を左手の陸地沿いに進むと、船は道なりに尻無川に入っていく。
 尻無川水門が見えてきました。
 
 この水門は、柴崎友香「ショートカット」に出てきた木津川水門ではありませんが、まったく同じ形態ですね(色が違う)。これが横倒しになって、高潮を防ぐのですね。
 水門をくぐってさらに遡ります。もう完全に川です。前方に大阪ドームが見えています。
 
 さらに遡ります。道頓堀川に入った。
 
 グリコを右手に、戎橋の下をくぐってさらに進む。
 あ、ここで船が動かなくなりました。
 
 ここはどこか。太左衛門橋を越えたところですね。中之島の西端からここまで遊覧船が就航しているのでしょうか。水都大阪ヴァーチャル川巡りでした(^^;

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月31日(日)22時34分24秒
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    元ツイート
 この画像を見つけた時、何か気にかかるものがあってRTしておいたのですが、だんだんとこれ、見たことが実際にあるような気がしてきました。
 小学校低学年か、もしかしたら小学校入学以前に、実家(生家)の前の道を通っていたという映像がうっすらと浮かんで来たのです。
 ですからその記憶が、もしねつ造でなく事実だとしても、今から 50年以上前の話ということになります。
 私が見た(ことがあると思い出した)のは、単に竹製品の行商人だったのかもわかりませんが(現在でも当地には竹製品を製造販売しているらしい小売店があります)、その時点からさらに 60年ほど前である1901年のこの写真の人物は、ひょっとしたらまさに「山の民」の一員だったのではないか。などと想像してしまうのですねえ (^^;

 

「なにわの源蔵事件帳2 新春初手柄」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月30日(土)01時21分29秒
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  > No.7192[元記事へ]

 最終話「不知火の化粧まわし」を読みました。

 当時大相撲は東京と大阪で分かれていて、人気も実力も東京の方が上だった。で、実力も野心もある大阪の力士の中には、大阪相撲のレベルに飽き足らなくなって、東京へ出ていくものがあった。ところが、大阪相撲出身者は出世等で差別されることもあったようです。
 これなど、現在の大相撲でモンゴル出身力士がいろいろ難癖をつけられたり、一方日本人力士の稀勢の里がどんどん基準を甘くされている(ところがその基準すらクリアできない)現状とどこかよく似ていますね。

 そんな差別をものともせず東京相撲で横綱を張った不知火が、引退後大阪に戻り、湊部屋の頭取※に収まっている。しかし病床で、1か月はもっても 2か月は難しいと言われている。そんな折、不知火の化粧まわしが盗まれ、早速源蔵に捜査の依頼がかかる。
 年が明けて明治12年の寒い日の朝のことでした。
 病状が病状だけに、源蔵親方も早く解決せねばと心焦ります。
※大阪では頭取ですが、東京では親方と呼んでいたとのこと。現在の相撲部屋も親方と呼びますが、してみますとこれは、今の大相撲が当時の東京相撲の系譜だからなんでしょうね(そういえば源蔵は親方と呼ばれていますが、江戸では親分ですね)。

 さて、盗人たちは湊部屋に忍び込むにあたり、鴨居を無理やり押し上げて雨戸を外しているのですが、よほどの力持ちが数人がかりでやらなければとても無理なのは一目瞭然だった。ところが足場が悪くて何人もの者が立てるような場所ではないのです。この謎を、現場を検分した源蔵親方はひと目で見破る。それは霜柱を利用したトリックだったのでした。
 このトリック、私は膝を打ちましたが、著者のオリジナルのものなのかどうか、残念ながら、それを判断する知識を持ち合わせていません。オリジナルのアイデアったのなら、本格ミステリーとして十分通用する物理トリックでしょう。このトリックの解明から足がついて、犯人は捕まり、動機も明らかになります。
 何年か前、グループサウンズのヴィレッジシンガースのボーカルの贋者が、長野県だったかに現れて話題になりましたが、情報の発達していない当時は、そんな連中が地方には多くいたのかもしれませんね。そして村人たちも半分贋者だとわかって、娯楽として楽しんでいたのではないでしょうか。

 ということで、有明夏夫『なにわの源蔵事件帳2 新春初手柄』(小学館文庫08、各話初出「野生時代」79~80)読了。
 明治10年頃の浪花の風俗、知識がかなり正確につめ込まれていて、興味深く楽しめました。

 

源蔵親方神戸へ出張る

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月29日(金)02時11分3秒
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  > No.7191[元記事へ]

 第4話「灯台の光」を読みました。
 今回は、海坊主親方神戸へ出張る、の巻です。
 紅染並紅白粉製造商組合の出納監事を勤めていた男が、組合の掛け金六百余円を横領して姿をくらます。のちにこの男、有毒顔料を無害と偽って菓子屋や餅屋に卸していたことが、被害者が続出したことで発覚する。
 その男が神戸に潜んでいるとの情報があり、源蔵親方の出番となります。
 なぜ源蔵親方なのか ?
 当時神戸の、特に開港場は、アメリカの西部開拓地みたいな世界で、ならず者がうようよしていたみたいですね (^^;
「うむ、アコはガラが悪いよってに、素人にはちょっと無理やろなあ」と親方。
 くだんの男は、おそらく開港場の仲仕寄場にでも潜り込んでいるのだろうとあたりをつける。
「お尋ね者が潜り込むには、もってこいの場所だからである。ことに神戸は新開地であるだけに、粗暴専横の気風が強く、頭分にもいい加減な奴が多いと聞いている」
 本書によれば、当時、梅田のステンショから神戸方面へは 1時間半に一本の割で陸蒸気が出ており、神戸までおよそ1時間足らずだった。調べると大阪駅は1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間の鉄道開業と共に開業したとあり、本篇の時代は明治11年ですから、開業から 4年しかたっていないわけで、建物も新しかったことでしょう。
 
(当時の駅舎はゴシック風の赤煉瓦造り2階建てで、現在地より西の大阪中央郵便局付近に当たる場所にあり、周辺は民家がわずかにあるだけで田圃が広がっていた。ウィキペディアより)

 さて源蔵親方は、海岸通の宿屋に宿泊します。南向きの、オーシャンビューが素晴らしい部屋で、
「窓一杯に青磁色の海が拡がり、その中で黒い煙を吐きつつ往来する蒸気船の群れは、流石に雄大な力に溢れていて、堂島川や土佐堀川で眺める光景とは桁が違う。神戸はやはり海の町である」
 と、源蔵は感心します。
 西の方に岬が二つ見え、遠い方の岬の先端には長い櫓が突っ立っている。
 いうまでもなく、和田岬灯台ですね。現在、須磨海浜公園に移設されているのは、源蔵が見たのから何代か後の鉄製の赤色のものですが、源蔵が見たのは初代の、明治4年に完成した木製の白い建造物だったようです。
「本来は白い色なのだろうが、赤い夕陽を浴びて、さながら蠟燭の炎のようだった」
 
 明治20年に撮影された灯台とその付近の海。元記事

 さて捕物の方ですが、外人居留地の亜米利加一番館、通称「亜米一」にウォルスホル商会※という貿易会社があり、最初は木綿の襤褸を輸出していた。
 実はこれ、ペーパーの原料として輸出されたのですね。ところが日本の着物には藍の染料が使われている。藍の染料は高価なので、染物屋は襤褸から藍を抜く。その際石灰が使われる。
 その石灰はどうしても襤褸の中に残ってしまう。しかも襤褸は水分を含んでいるので、このふたつが混じりあうと航海中に自然発火する危険性がある。ならば日本でペーパーにしてから輸出したらいいではないか、ということになり、居留地の隣に二千五百坪の土地を借りて大きな製紙工場を建てた。で、大量の襤褸が買い求められた。
(※モデルはウォルシュ商会で、神戸製紙所。後に岩崎家が買収し、現・三菱製紙)
 開港場の人夫寄せ場に逼塞していた件の男、それを聞いてこれは千載一遇のチャンスと儲け欲に火がつく。もともと染料を扱っていたから襤褸の調達などお手の物なわけです。それでつい、カタツムリのツノを出してしまったのが命取り。
 偶然に偶然がうまいことに重なり、あれよあれよという間に解決してしまいました(汗)。著者も少しは気になったのか、
「人間、ツイとる時にはトコトン押していかなあかん。それは、わしの長い経験で掴んだコツや。芽が出ん時の悪足掻きは禁物やが、勢いに乗ったら何もかもええ方角へ転がって行きよる。ツキとはそういうもんじゃ。解ったか、この青二才」
 と、あらかじめ源蔵に云い訳させていますな。
 いやまあ、時代が下った大正末期になっても、ハワイ警察の中国人探偵チャーリー・チャン警部なんか、その捕縛法は源蔵親方とそんなに変わっていませんから、いいのではないでしょうか (^^;

 

Re: 「なにわの源蔵 新春初手柄」読み中(追記)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月27日(水)22時37分2秒
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  > No.7190[元記事へ]

 昨日は、調べたことを書き込むのに気を取られ過ぎて、ストーリーについて書くのを忘れていました。
 本篇、悪徳金貸し寺島千之助が、配下の強盗を使って自分の貸したその金を強奪させる。証文をかたにとって借人の家財産を根こそぎ差し押さえる、という悪行に対して、当時の法律は無力だった(一応合法)。
 それが気に食わない源蔵親方、一計を案じる。逆に相手を引っ掛けてやるのだ。
 戎座(後の浪花座)の狂言作家、勝諺蔵に台本を書かせ、当時まだ無名ながら新進気鋭の若手だった初代中村鴈治郎(本篇の時代は明治11年。實川鴈二郎が中村鴈治郎、を襲名、もとい、に改名、したのが同年で、その翌年初めて座頭を務める。ウィキペディアによる)に、いわゆるおとり捜査の芝居をさせ、ついに寺島千之助を強盗の現行犯で捕縛しちゃいます。
 この時、強奪して寺島が所持していた札束が、強奪された札束であることを証明するために、ある化学的な仕掛けが施されます。あらかじめ札束にラクムス水溶液という薄い水色の薬品を塗っておくのです。
 さて、この手元の札束が、貸した札束やという証拠があるんかい、と寺島がすごみます。
 よう言うたと源蔵親方、札束に持参した希塩酸をぬる。するとあら不思議、札束は赤く変色し、盗まれた札束と、今ここにある札束が同じモノであることが証明される。要するにリトマス試験紙の原理ですな (^^;
 なかなかよくできた短編小説でした。

 

Re:「なにわの源蔵 新春初手柄」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月26日(火)22時37分29秒
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  > No.7189[元記事へ]

 第3話「召捕夢物語」を読みました。
 前回、同心町も気になると書きましたが、そこは違いました。本篇で源蔵が、朝日町の家から、綿屋町の耶蘇教の伝道師、秋元半左衛門と歩き出し、松ケ枝町で二人は別れる場面があります。
「源蔵はそのまま豊崎村の川崎へと向かった。この地の俗に「同心町」と呼ばれるところに、厚木寿一郎※は住んでいる」
 となっていて、それからしますと、朝日町は松ケ枝町の南にあったということになるはずです。松ケ枝町の南は東天満です。東天満の成り立ちがどこかに記されていないか、検索しましたが、よう見つけられませんでした。しかしまあ、ほぼこのあたりに間違いなさそうです。
(※厚木は大阪府警察(前身は府兵局、巷では浪花隊と呼ばれていた)十等警部。もとは東町奉行所同心なので、同心町に住んでいるのは当然なのです。としますと、源蔵はもと東町奉行所手廻り。手廻りって同心のことだと思っていたのですが、間違っていたのかもしれません。岡っ引きだったんですね)

 ところで、秋元半左衛門の住む綿屋町も、現在の地名には存在しません。ただ 堀川のウィキペディアに、架かっていた橋の名前が上流から並べられていて、梅ケ枝橋と寺町橋の間に綿屋橋という名前が見られます。
 しかしこちらの地図では、梅ケ枝橋と寺町橋の間に橋は存在していません。うーむ。どういうことか。
 その謎に対する仮説が、こちらのHPにありました。
「このあたりは当時、綿花業者が軒を連ねる綿屋町と呼ばれていた場所で、梅ヶ枝町というのは西天満に旧地名として残っているので、ここに架けられた橋がなぜに梅ヶ枝橋という名称なのか…、謎です」「ただ、「摂津名所図会大成」を見てみると、この橋に該当する箇所に「綿屋橋」というのがありまして、どうやら、この「綿屋橋」が、どっかで「梅ヶ枝橋」に名称変更しているような気がするんですよね」

 いや面白いではありませんか(^^)
          クリックで拡大↓
 

「なにわの源蔵 新春初手柄」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月25日(月)23時02分22秒
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  > No.7188[元記事へ]

 第2話「異人女の目」を読みました。
 朝日町の位置が大体分りました。ここに住所の記載があるのですが、現在は存在しない地名です。どうやら天満に吸収されてしまったらしい。
 唯一、ネットでひっかかったのが 朝日町運輸倉庫㈱という会社で、「昭和26年2月大阪市北区朝日町(現・北区天満)にて創業」という記述にかろうじて残っていました。
 本篇で、源蔵親分が朝日町の家から曽根崎警察署に行くのですが、途中「寺町橋」を渡るとあります。この寺町橋も、天満堀川(現阪神高速12号守口線)に掛かっていた橋で、当然今はなく、親柱が残されているばかり。
 かつ、食事は南へ下った天満橋北詰の「だしじゃこ屋」でとるのが常のようですから、天満橋の北、寺町橋の東の交点の内側のどこかに、朝日町(筋)が存在したんだろうと考えています。ただし親分は元手廻り(同心)でしたから、同心町も気になるんですけどね。


 

「なにわの源蔵 新春初手柄」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月24日(日)21時48分41秒
返信・引用
   小説の中の大阪シリーズは、有明夏夫『なにわの源蔵事件帳2 新春初手柄』に着手。まずは冒頭の表題作を読みました。
 このシリーズは『大阪ラビリンス』で読み、気になっていたもの。テレビドラマは見ていません。最初ちょっと見て、枝雀さんの源蔵が枝雀さんらしくなかったので。
 本篇でもそうですが、源蔵親分は肝っ玉のすわったコワモテの親分なのです。当時の私の中に定着していた枝雀さんは、いまだ小米でして、つまり第8連隊でありまして、親分と言うのとは役柄がちょっと違うなあ、と不満に感じたのだったと思います。

 さて、源蔵親分は朝日町に住んでいるようです。この朝日町がよくわからないのですね。今はなくなった地名なのかも知れません。地理的には大川右岸、天満辺にあったのではないでしょうか。読み進めていけばもっとはっきりするかも知れません。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月24日(日)01時18分57秒
返信・引用
   元ツイート
                 ↑
              クリックで元記事

 

「ショートカット」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月23日(土)23時19分8秒
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  > No.7185[元記事へ]

 最終話「ポラロイド」を読んだ。
 本篇の舞台は東京なので、残念ながら空間的把握は全くできませんでした (ーー;
 最後にようやく大阪に帰ってきた主人公は、今はなき大正ロマン香り高き大丸心斎橋店(現在改装中)の南西角の 「歩道の隅に設置された、心斎橋周辺の建物を象ったブロンズの模型」の前で男と待ち合わせをする。
 

 全4篇の作品集で、主人公の名前も違いますし、原則として別々の話なのですが、内的には連続しています。第1話では遠距離恋愛中の、東京に住んでいる男のもとへ<ワ━プ>するくらいなのに、第2話では、
「同じ場所にいるだけでなにも言わなくてもわかることが、電話の向こうとこっちで別々の景色を見ながらいくらしゃべってもきっと伝わらないって、決定的にわかり始めていた」
 となっていて、第3話は別れた直後、最終話では半年くらい経っています。
「今、新宿のはずれで飲んでいることを電話して知らせたいのも、ここからそう遠くないところに住んでいるはずのその彼ではなくて、大阪にいる別の人だった」
 そういう意味では一種の連作長篇といえる。
 ついでに言えば、タイトルの『ショートカット』は、<ワ━プ>の言いかえではもちろんなく、4話すべてに登場する男はみな(元彼氏だけでなく)ショートカットの髪形なのです。元彼は別人格ですが、他の登場する男は、内的に同一人物でしょう。ある意味、演劇的な小説手法と言ってよいのではないでしょうか。大変面白かったです。

 ということで、柴崎友香 『ショートカット』(河出書房、04)読了。

 追記。最終話のラストは、第1話の<ワ━プ>と対応していると思います(直接的には、仙台行きのエピソードに対応しているのですが)。きれいな対称形になっている。こう書いてしまえるのが著者のセンスなんでしょうが、まさに柴崎ワールドというほかありません。


 

Re: 「ショートカット」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月22日(金)22時17分36秒
返信・引用 編集済
  > No.7182[元記事へ]

《和佳ちゃんが指さした川の先には、高さが三十メートルくらいありそうな巨大なアーチ型の鉄の橋のようなものが見えた。でもほぼ半円形をしていて絶対に登れないので橋じゃない。
「水門ちゃうん?  あれを横に倒して閉めて、水が来えへんようにする」》


 第3話「パーティー」を読みました。
 本篇の行程は、木津川水門付近にある、架空の大阪港南マリーナ(付近には大正マリーナと阪神マリーナが現実にありますが、たぶん阪神マリーナがモデルのようです)からクルーザーで明石海峡大橋、そこから新快速、大阪市営バスと乗り継いで戻り、深夜のクラブでのパーティーへ。
 著者の小説は、必ず中盤から後半にかけて、夢なのか現実なのか不思議なシーンがあり(というか、現実なのですが主人公がそれをダリ的に解釈して「見ている」のだと思います)。本篇でのそのシーンは、最終の市バスの中で「見られ」るものです。(例えば市バスのいちばんうしろに坐っていて、バックミラーで運転手と目が合うことは、現実にはあり得ないと思います※。そこがダリ的な歪像です。ケータイで電話をした三沢くんが偶然にもバスの横を自転車で走っている、というのもそう)
 都合がよすぎる、と言いたいのではありません。それがシーンとしてとてもよいのです。ダリの絵画のように……。
※それとも 2002年に開始、2013年に運行を終了した「赤バス」に乗っていたのでしょうか(本書は2004年の刊行)。


 

「柳は萌ゆる」連載スタート!

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月22日(金)18時41分50秒
返信・引用
   平谷美樹の歌詠川通信
  ↓クリックで拡大
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月22日(金)00時29分13秒
返信・引用
  元ツイート
野末陳平通信


 

「ショートカット」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月21日(木)22時15分15秒
返信・引用 編集済
  > No.7181[元記事へ]

 第2話「やさしさ」を読みました。
 南堀江のはずれにある、友人のカフェの開店1周年パーティーからの帰り道、何となく送ってもらうようなかたちになった年下の(彼氏ではない)男と、深夜の千日前通を西へ歩いて行く。言ったらそれだけの話なんですが、いいですねえ・・

「高速道路の高架は交差点で左に逸れ、頭の上が開けてその広さがわかった。大阪の夜の空には、いつもたくさん星が見える。ちゃんと、見れば。」

 

「ショートカット」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月20日(水)23時21分12秒
返信・引用 編集済
   大阪小説シリーズは、柴崎友香 『ショートカット』に着手。冒頭の表題作を読みました。
 著者の小説は、読書メモを確認したら、 2014年に 『その街の今は』を読んで以来で※、本書で5冊目のようです。
 この作者、どの作品を読んでも独特の柴崎ワールドで、その意味ではオンリーワンなのですが、逆に一冊一冊の区別がくっきりしない。どうしても印象が混ざってしまうのです。そのへんは光瀬龍とすこし似ているかも。
 表題作も、いかにも典型的な柴崎ワールドでした (^^)。
 今回は〈ワープ〉という、ちょっと SF的な設定があって、その物理的にありえない設定がどう解決されるのか、興味津々で読み進めることができました(タイトルはワープの言い換えなのかな。それともやっぱり森川の髪型?)。ラストはなぞが残るとともに、やられた(なーんだ)という明快さもあり(ミステリの叙述トリックの援用)(^^;、なかなかよくできたお話でした 。
 舞台は、心斎橋筋から東に少し歩いた合コン会場で、著者の小説で飲みのシーンはたいていそのあたりから東心斎橋にかけてのあたりですね。著者の行動範囲が反映されているのでしょう。しかし後半は、〈ワープ〉で東京表参道に舞台は移ってしまうのでした(汗)
※面白いのはこのときもかめくんと大久保町を続けて読んでいるんですねえ(^^;


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月20日(水)17時00分51秒
返信・引用
  .  

「鉄になる日」聴きました

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月19日(火)22時27分34秒
返信・引用 編集済
   先日のMBSラジオドラマ「鉄になる日」、録音しておいたのを本日ようやく聴くを得たのですが、期待していたほどではなかった。
 具体的には言いませんが、原作者の意図があまり反映されていなかったです。
 まあ 1時間やそこらで、それは当然不可能なんですけどね。でも時代を現在(現未来 ?)に繰り下げることにどのような意味があったのか、逆にそれが原作のいちばんよいところを消してしまったような。ちょっと残念でした。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月19日(火)16時41分45秒
返信・引用 編集済
    クリックで拡大  

安部公房読書会への往復

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月18日(月)23時50分9秒
返信・引用 編集済
   今日は安部公房読書会で、阪急高槻市まで出かけてきたのですが、事前にケータイの乗り換えソフトで確認したところ、面白いルートを提案してきたのですね。
 関空快速で新今宮、地下鉄動物園前まで歩き、堺筋線接続阪急で淡路。阪急京都線特急で高槻市。この行路が時間的に一番早いらしい。
 実はこの行き方は今まで利用したことがありません。大体新今宮 ‐ 動物園前間で乗り換えをした記憶がない。あったとしても、おそらく数10年前が最後。頭の中をまさぐっても行程の風景が全然浮んで来ません。
 天神橋6丁目 ‐淡路間も多分これまで利用したことがないはずです。しかしこの区間は、上方 SFにとって重要な区間であります。車窓から見るだけですが、見ないよりはまし、ということで往路はこのルートを選択しました。
 いやケータイ、面白いルートを提案してくれました。

 ところで第二ルートとして提案されていたのが、天王寺から地下鉄御堂筋線で西中島南方/南方、阪急京都線準急で高槻市というルート。これも捨てがたい。帰路はこれを利用しようと決めました。
 でそうしたのですが、私はケータイの表示が「西中島南方 / 南方」となっていたので、連絡しているのだと思ったんです。それで高槻市から天王寺までの連絡切符を買ってしまった。
 ところが、なんと地下鉄西中島南方と阪急南方はつながってなく、いったん改札を出なければならないのでした。
 あちゃー。切符が無駄になるけど仕方がないなあ、と、改札を出ようとしたところ、、ピンポンピンポンと警告音が出て、近くの電話から係員に連絡して下さいとの音声。
 で、かくかくしかじかと言ったところ、乗り越し精算機で精算して下さい。すると過払いが返ってきました。助かった。
 でも普通、乗り越し精算機にはこんな過払い分を返す機能はないのではないでしょうか。とすればおそらく、この駅では私のように、西中島南方と南方が連絡している、と勘違いする乗客が多いのでしょう。ありがたいサービスでしたが、それならいっそ地下ででも連結して連絡切符が通用するようにすればいいのに、と思わないでもなかったのでした。ちゃんちゃん!

 なお、読書会については、Uストリームで視聴できるそうですので、そちらをご覧ください。閑散としていますが、今回もいろいろ啓発されました。得るところが多く楽しい会でした (^^;

 追記。2次会の途中から右肩がジンジン痛くなってきて、じっと座っているのも辛く、それは帰路の電車の中でもおさまらなかった。これは一体どうなることやらと心配していたのですが、帰宅し風呂に入りネットを見ながら(クーラーを入れないで)安静にしていたら、収まってきました。読書会の会場の冷房が効きすぎていて、めちゃくちゃ寒かったのですが、どうやらそれが原因で一時的に冷房病にかかっていたのかも知れません。大事に至らずほっとしましたが、いずれにしても難儀なことです。
 

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