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 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月26日(月)03時07分12秒
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西崎憲「一生に二度」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月25日(日)15時10分6秒
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   西崎憲「一生に二度」(『たべるのがおそいvol.3』所収)を読みました。
 ちょっと変わった構成で、5章に分かれるそのうちの2章と3章は、現実に海外で起きた奇妙な事件のサマリーといえるものです。前者は第二次大戦中、カリフォルニア州に2箇所あった日系人強制収容所のひとつ、テューリーレイク収容所(もうひとつが宮内悠介『カブールの園』に出てきたマンザナー収容所)で発生した奇妙な意識の退行現象、後者はフィンランドボドム湖で起きた陰惨な殺人事件(これに就いてはウィキペディアに項目がありました)。どちらの事件も理性では説明がつかない。
 4章はボドム湖事件を知ったことでなぜかそれに囚われてしまった日本人の話。この章の主人公、山野浩一「死滅世代」の主人公とよく似ているんですね。「倫理に反することは、ほぼひとつもしたことがなかった」「(怪我をしても)痛みをあまり感じなかった。自分は痛みにすら鈍いのかと考え、愕然とした」。倫理的でありつづける(抑圧)の補償作用か、犯罪には敏感で、「なかでも殺人に強く惹かれ」る傾向がある(甘美な死への接近)、となっているのです。
 さらに、1章(序章)と5章(終章)は同じ主人公の話なんですが、ここでも類似があって、主人公の夫の昔話として、海に遊びに行ったとき、友人が脚を攣ったか何かで溺れ、それを救出した話が語られる。しかもそんなことが、互いに無関係に、二回あった。これがタイトルの直接の由来と思いますが、実は、山野作品にも、海で女が溺れるシーンが出てくるのです。
 ただし本篇では目撃した夫が救助しますが、山野作品の主人公は、女が海に沈んでいくのをじっと見ている。逆のように見えますが、山野作品では座視する方に不条理が措定されているのに対し、本篇は遭難する方に不条理があって、あとでなぜ泳ぎに行ったのかと問われても、本人自身が明確に答えられない。向きが反対なだけで同じなんですね。
 まあ、たまたま前日に山野作品を読んでいたというだけの偶然なんですが、その類似は意味があるように感じます。(シンクロニシティ?(^^;)
 それは人間の理性の薄皮をべろりと剥がしたら、そこには不合理で混沌としたものが煮え立っており、何かのはずみに、薄皮を突き破って噴出してくることがあるという認識、人間観ではないでしょうか。人間はそういう存在であることを、理性の薄皮に意識を置いている当の人間自身がなかなか気づけず、というよりも意識が抑圧してしまうため、持て余して不安になったり不定愁訴を引き起こしてしまうことがあるんでしょうね。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月25日(日)00時54分26秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月24日(土)21時40分16秒
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 こうなったからには、豊田先生にはぜひ青空はるか師匠に向かって絶叫してほしいです(^^;
 私の脳内スクリーンに写った映像は、はるかかなた師匠が豊田先生ネタで漫才をしている。豊田先生を揶揄して笑いを取っている。そこへ当の豊田先生が巨大な金槌を持って(もちろんビニール製か何か)「このハゲーーー!!違うだろーーー!!」と絶叫しながら飛び込んでくるのです。はるか師匠が頭を押さえて逃げるのを追いかけ回す。かなた師匠がオロオロしながら豊田先生を後ろから止めようとするのですが、一蹴りで転がされてしまう。腰を抜かしたはるか師匠がいざりながら後退するところへ、あわや巨大金槌が振り下ろされる――と観客が目を見開いた瞬間、豊田先生が、やさしく、ふっ、ふっ、と、はるか師匠の髪を吹いてニッコリと微笑む。
 どうでっしゃろ。緊張と緩和の原則ははずしてないと思うのですが(^^ゞ


 

山野浩一「死滅世代」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月24日(土)20時56分6秒
返信・引用 編集済
   山野浩一「死滅世代」(SF Prologue Wave所収)を読みました。73年雑誌初出の、単行本未収録作品とのこと。
 主人公は高校の卒業パーティで、同級生の恋人が(いわゆる成人式のノリみたいな感じで)惨殺されるのを目撃する。警察で、なぜ助けようとしなかったのかと問われ、最初の一突きで死んだことが視認できたのでそれは無駄な反応だと答えたのですが、理解してもらえない。「君は愛していなかったのか」
 その自分の行動を振り返って主人公は、志望していた国連軍士官学校の受験に自信が湧いてきます。これはどういうことかというと、士官として必須であるその場の雰囲気に呑まれない沈着冷静な態度を自分が出来ていた、適性がある、と感じたからだと私は解釈しました。
 首尾よく入学できた主人公ですが、「士官学校での生活には規律があり、楽しく日課を過ごすことができた」。規律を遵守するのも軍人としての適性でしょう。
 しかし適性がないにも関わらず(そのことに気づかず)入学してきたものも当然います。主人公はそんな連中が起こした(恋人の事件と同様の)ゲーム的殺戮の場面を、何の感慨もなく座視します。
 二年生ではサバイバル実習があり、オーストラリアの砂漠に放置されるのですが、そのとき、脚を食われた同級生の死体を発見する。主人公は報告し、犯人が捕まる。ここでも主人公は冷静に坦々とマニュアルどおりのやるべきことをやっています。
 4年間の通常コースを終え、アストロノーツコースへと進む。ここでの訓練も厳しかったが、「殆んど俗世から離れてハワイの研究所内で朝から夜まで日課通りの生活を続け、オーストラリアの砂漠での体験以上に厳しい訓練を受けた。だがそうした訓練は奇妙に快いものでもあった」
 最初の辞令は、残念ながら地上勤務、NYC停戦監視団員としての任務だった。その頃、全世界的に内戦が拡がっており、各国政府軍とゲリラ組織が戦うという状況になっていたのです。仕事は停戦協定を両軍に守らせるというもので、ここではまあノンキャリアの中に放り込まれたキャリアみたいなもので、将校である主人公が一番状況に対して無知だった。主人公はすべて部下に委ねて何の命令も出さなかった。軍人に向いた決まり事を優先する、規律的な性格であると同時に、あまり「俺が俺が」と出しゃばる性格でもなかったんですね。見方を変えれば、現実に対する対応の仕方が「間接的」な性格でもあったと言えるのではないかと解釈します。
 そんな生活の中、主人公は、嘗ての同級生、オーストラリアの砂漠で同級生を食った男、入学式でゲーム的殺人を首謀した男がゲリラ軍に加わっていることを知る、彼らに誘われて行ったのは、ゲーム的殺戮を大掛かりにしたような、無意味なサバトでした。
 そこで、生まれてはじめてマリファナを体験(※その時代、いい大人になるまでマリファナを知らないというのは、それを意志で拒絶していたからで、主人公の規律遵守の性格が確認されます)、はじめてでハイになりすぎ、二人の同級生とともに、主人公に従ってきていた部下をゲーム的に殺害してしまう。この時はじめて主人公は、法を犯したのでしょう。
 気がつくと国連本部に戻っていたのですが、前夜の自分の行為を慚じ、堪らなく後悔する※。こうなってはゲリラに加わるしかないと、荷物をまとめに自室に戻ると、召還令状が届いていました。
※(ただし死に接近しているときに甘美な情緒を感じている自分を自覚する。翻って恋人の死に際して動かなかったのも、その後の事件のときの自分の態度も、それに起因している部分があったことにも気づいたようです)
 それで気が変わり、あとは野となれ山となれと(これが正しいんですが、最近の若者はこの慣用句を知っているんでしょうか。あとは野となれ大和撫子はそれを踏んでいるわけですが、それを知らずに使う人が増えて、そのうち後者が前者取って代わるんじゃないか、そんな気がします>おい)(^^;、まとめた荷物を持ってさっさとハワイの研究所に帰ってしまいます。
 そしてようやくアストロノートとしての初仕事に就く。それはステーションへの輸送業務でした。
 宇宙に出た気分は、死に接した時のそれと同じでした。つまり半村良が妖星伝で、地球は生命が多すぎる、と言ったあの感覚ではないでしょうか。主人公の性格は、そういった鉱物志向から発現している要素があるように思われます。
 ところで、そういう任務に明け暮れている中(NYでの事件で吹っ切れたのか主人公はマリファナを愛用するようになっている。街では擬似的な殺戮の興行が人気を集めている)、主人公は街で老人と娘が、モラルを取り戻せと演説しているところに出くわす。この老人、要するに小松左京というよりも映画「さよならジュピター」のジュピター教団(この教団自体は無茶苦茶ですが)の教祖ピーターと同じ役割を担っている。つまりその元は60年代後半から70年代にかけて西海岸を席巻したフリーセックス、フラワーピープル、緑色革命なんですね。彼らの主張が愛であったことは言うまでもありません。
 ここで整理しますと、この小説世界を覆っている潮流はアパシーです。政府軍もゲリラも受動的に内戦状況をアプリオリに(既存事実として)受け入れ、それに従っているにすぎない。一般市民もそれは同じで、内線の状況は外部事実でしかない。内戦でどちらが勝っても、それが市民の根源的アパシーを解消しないと分かっていますから、疑似殺戮でウサを晴らすばかり。これを社会学的にいえば後期資本主義の展開で社会が細分化され極度に管理されてしまった結果なのですが、それへの対抗力として、反規律的なフラワー革命が発生した。
 本篇はそういった60年代末期を取り込んでいるといえる。本書執筆時点(73)でもまだlove至上主義のフラワージェネレーションは一方の大きな思想的勢力であったわけですが、ストーリーを辿れば、当然ながら著者がフラワー革命 all you need is love を一顧だにしていないことは明らかです(少なくともこの作品に於いては)。
 疲れてきたのでちょっと端折ります。主人公は新しい任務で火星へ派遣されます。火星にはライヒ(の生まれ変わりと称する)博士がオルゴンエネルギーの研究をしていた。国連は、オルゴンエネルギーの研究成果が、地球の(人間の内的な)疲弊を改善するかもしれないと考え、主人公に博士を支援するようにと派遣したのです。
 火星のランズケープは、宇宙空間以上に、「更に満足できる冷い世界」でした。つまり火星は主人公の内宇宙としても措定されているのですね(とすればただちに想起されるのが荒巻義雄「火星のダリ氏」ですよね(^^;)
 火星世界は各基地ごとに分断され、すでに火星に駐留する科学者や軍人の本国は崩壊していてそこからさらに外宇宙へと向かう可能性は絶たれており、科学者もそこで得た成果を地球で役立てることができない。各個人は没交渉となって夫々の内面に引きこもっています。
 唯一の頼みはライヒ博士ですが、博士によれば、世界と人間の進歩の停止退廃化は、宇宙自体のビッグクランチと関係しているのかもしれないと。すでに宇宙の中心部では回転が逆転しているのかもしれないと言います。ここ、私はバラード「結晶世界」への応答と読みたいですね(^^;
 やがて地球から火星の全人員に帰還命令が下り、最後の地球船が火星に派遣される。主人公は各基地を巡って帰還を促すが、基地の人々は既に無時間的な内的楽園に取り込まれてしまっており、応ずるものはいなかった。ライヒ博士すら。
 主人公はたった一人到着した宇宙船に乗り移る。船内では操縦を一手に引き受け、乗務員を喜ばせる。彼らは日がなマリファナパーティに明け暮れる。
 地球に還ってきた主人公は、故郷の日本に向かい、廃墟となった学校にたどり着く。そこは卒業パーティで恋人が殺された場所だった。寝転ぶと夜空に火星が赤くかがやき、そのはるか遠方には銀河系が逆回転をはじめていた……

 かくのごとく、本篇はまさに74年時点での外世界と内宇宙を醒めて概観しつつ熱く幻視した話で、ある意味、というよりも正に時代と密接に関わって成立した作品といえるのではないでしょうか。ネットで、現代の読者にこそふさわしいかも、という感想がありましたが、そう感じるのだとしたら外的内的な状況が、74年当時と変わっていないからかもしれません。というか、当然そうですよね。

 

ノリ・ケンゾウ「虫歯になった女」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月23日(金)21時07分46秒
返信・引用
   ノリ・ケンゾウ「虫歯になった女」(『たべるのがおそいvol.3』所収)を読みました。
 これは朗読小説ですね。いやそんなジャンルが実際にあるのかどうか知りませんが、歯切れよくリズミックな、これほど朗読に向いた文章は、にわかには類例を思い出せません。もちろん内容も朗読向きなんです。
 主人公は40歳主婦。生まれてこの歳まで、まだ虫歯になったことがない。それが、そのことだけが自分を自分たらしめるアイデンティティだとかたく思い信じていたところ、無惨やな、歯医者によって「虫歯ですね」と宣告されてしまったのです。
 主婦の落胆いかばかりか。「あの、判定はくつがえりませんか」「は?」「いえ、格闘技が好きなもので」。
 ははあ、と歯医者が調子に乗って「技アリとか一本とか?」というと、「なんですかそれは。真面目にやって下さい」と怒り出す始末。真面目一筋で冗談がわからないタイプなんですねえ。そのくせ自分がTPO的に頓珍漢なことを言っているのに気が付かない。いやそういう性格だから気が付かないのか。ちょっと北杜夫の登場人物を彷彿とさせます。
「ちょちょいのちょいと治療すれば簡単に治りますよ」「そういう問題じゃないんです!」それではこれまで40年間生きてきた根拠レゾンデートルがなくなってしまうんですねえ。
 ワァワァとあたり憚らず号泣しながら帰宅した主婦は、別の日、あの歯医者はヘボで誤診だったんじゃないか。と、すがる思いで別の歯科医院を訪れます。「虫歯ですね」「ガーン」「判定はくつがえりませんか」以下同文。
 ワァワァとあたり憚らず号泣しながら帰途につく主婦。涙に目もくもり足元もおぼつかなく、あっと思ったときには……

 という具合に内容もカリカチュアが効いていて(スミマセンちょっと盛りました)(^^;、ゲラゲラ笑ってしまいます。
 普通に読んでも面白いわけですが、文体のテンポの良さとこの内容は、やはり朗読で楽しみたいと思わずにはいられません。誰がいいかな。落語家さんか講談師さん、南湖さんでもいいがどっちかというとダラリン派なので、早口でテンポがよくてメリハリのはっきりした語り口の演者さんがいいですな(>おい)

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月23日(金)01時54分18秒
返信・引用 編集済
   
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相川英輔「エスケイプ」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月22日(木)21時16分31秒
返信・引用
   相川英輔「エスケイプ」(『たべるのがおそいvol.3』所収)を読みました。
 これはサスペンス小説ですね。
 主人公は宮崎のトウモロコシ農家の娘。家を継ぐのがイヤで(そもそも農業がイヤで)、アイオア州の大規模トウモロコシ農場にホームステイし、技術を習得しつつ大学へ留学するという名目でアメリカくんだりまで「逃げて」きたのですが、ホームステイ先が、まるで19世紀のプランテーション農家かと見紛う男根主義的、人種主義的な白人一家でした。同じくホームステイで来ているメキシコ人や中国人の学生と狭い棟に押し込められ、朝早くから奴隷のように働かされる。話が違うと斡旋した会社に訴えようと思っても、携帯電話の使用は厳しく制限されていた。そんなある日、農家の跡取り息子が突然やって来て、主人公の体に触れる。反射的に手を払い、もうここには居られないと、4千エーカーもある広大な、そして丈高いトウモロコシ畑に「逃げ」込みます。主人公は走りに走り、3マイル以上離れた隣の農園をめざすのですが、脚を捻挫してしまう。そのとき……

 なかなか読ませる文体で速度感もあります。そしてそれを後押ししているのがサスペンス小説という構造なんですね。
 本篇を読んでいて、そういえば大昔、サスペンス小説に就いてメモ的なことを書いたことがあったな、と思い出しました。ゴソゴソと引っ張り出してきました。

 余談ですが、1987年3月発行の《月下世界 3》という連絡紙で、このペーパーは、1988年9月の10号まで出していたようです。高校や大学の友人数名に送りつけていたんですねえ(^^;
 いま読むと、文章が若すぎて非常に恥ずかしい。辟易しますし、当然されると思いますが、本篇を紹介するのに丁度よい内容なので、貼り付けます。
 (さらに余談ですが、これ、ワープロ専用機で製作したもの。インターネット以前でまだテキストファイルの標準化されていなく、それをTXT化することは可能でしたが、なんかメンド臭かったのを覚えています。プリントアウト(感熱紙)したのを、当時ようやく一般化し始めたパーソナルコピー機、ミニコピアだったかファミリーコピアだったか、中森明菜が宣伝してましたよね、それでコピーしていました。ああもう30年前になるんですねえ(ーー;

 閑話休題。黄色のハイライト部分にご注目。本篇、ほぼ私が30年前に記したとおりの展開になっています(二人称ではないですけど)。追っ手にあわや見つかりかけるというシーンもありますね。
 そういうわけで、本篇はサスペンス小説の型を純粋に援用していて、筒井さんが田中光二『大いなる逃亡』を評したとき、<道中もの>という類型を提唱され、道中ものにすれば必ず面白くなるみたいなことを言っておられたと思いますが、本篇も同じことが言えると思うわけです。

 とはいえ、もちろん内容が伴ってこその類型であり、まさにタイトルどおり、二重の逃走を組み込んだ設定はなかなか巧みだと思いました。
 ところで本篇、あたかも19世紀南部の綿花プランテーションを彷彿とさせるわけですが(まるでタイムスリップしたよう)、現代の、中西部アイオア州のトウモロコシ農場において、実際に本篇のような搾取的な労働形態がいまだに残存しているのでしょうか。本篇が著者の実体験をモデルにしている、もしくはそういう事実を知り、執筆の動機となったのならいいのですが、あくまでも想像でこのような世界を創出したのなら、ちょっと気になるところです。この一家だけの特殊個別的な状況であることが分かればいいのですが、あくまで「逃げる」に特化した単線的なストーリーなので、外部の状況は主人公にも読者にもわからないですよね(隣の農場主をもっと詳しく描くとか)。

追記。トウモロコシは常に自分の味方だったというサブ設定があるのですが、それとトウモロコシ農家を嫌って逃げ出す動機がちょっと噛み合わないような気がしました。

 

星野智幸「乗り換え」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月21日(水)22時02分3秒
返信・引用 編集済
   星野智幸「乗り換え」(『たべるのがおそいvol.3』所収)を読みました。
「その人」はレッズの試合を見たあと、勝利の余韻もあってか、いつものようにまっすぐに帰宅せず、浦和行きのシャトルバスに乗ります。かつて住んでいた浦和の町を徘徊したくなったのです。バスのなか、いろんな人の声が漏れ聞こえてくるのですが、どうも他人の脳内での独り言まで、その人の耳は拾っているみたいなのです。そういう特異能力者なのか、単に想像力が豊かなのか、最後まで明示されることはありません。
 久しぶりの浦和は面目を一新していました。勤めていた新聞社は社屋を移していた。しかし当時よく通ったラーメン屋は健在だった。その人はチャーシュー麺を頼む。そこでも、他人の声が漏れ聞こえています。隣の席に、店の雰囲気とはちょっと場違いな感じの男が座っているのに気づく。「浮いてるな」と思った瞬間、男がこっちを見た。あ、聴こえたかな、と狼狽する。その男が気になったのは、その場違い感も含めて、自分とよく似てると感じたからなのです。その人はこう思います。もしも名前を尋ねたら、きっと「星野智幸です」と答えるだろうと。星野智幸はその人の名前です。
 事実、男の名は星野智幸で、なんとその人が以前勤めていた新聞社の社員なのでした。
 そこでその人は確信します。男は、自分が辞めた新聞社を、そのまま辞めずに勤めてきた自分なんだ、と……!?

 私がイマココに居るのは、別の可能性の方向へ行かなかったからですよね。しかし分岐点でそっちに行ってしまった自分がいるのではないか。「あそこでこうしておけば」それをしなかったから現在の自分はある。しかしあそこでそうしてしまった自分のいる世界が、実は無数に存在している。というのが眉村さんの『夕焼けの回転木馬』でした。主人公の村上(の意識)は、その無数の平行世界の自分に、どんどん移行して、漂流していってしまうのですが、本篇の小説世界は、上記のように、この世界内において、別の可能性に分岐した自分が同時に存在しているという設定(一応)なんですねえ。
 いや面白い。
 ちょっと下世話なんですが、この、新聞社に残った星野は、政治部に所属し、地方議員に取り入って、その太鼓持ち的記事を書いたりしていてズブズブの関係になっているのでした。今度議員が中央政界に打って出るので、その後釜に市会議員選に出るつもりだと言って、そういうのが嫌で辞めたその人を驚かせるのですが、なんかこの頃加計学園関係で槍玉に上がっている政治部記者の生態を揶揄しているようでもあるんですね。でも執筆はもっと前のはずで、政治部記者とは、今も昔も変わらずそういう連中ということなのかもしれません。

 閑話休題。その後、さらに何人かの「あり得たかもしれない」星野が登場します。とはいえ、無数に出てくるわけではありません。無数に現れてアラエッサッサをはじめたら筒井ワールドになっちゃいます(>おい)。そんなドタバタにはならず、余韻を持って話は終わるというか、片方はいつの間にか消えてしまっていて、そうなると今まで話していた分身は本当に存在していたのか。ここで前半のバスの中での漏れ聞こえが伏線として効いてくるんですねえ。非常に面白かったです。


 

Re: 段野さんにオススメです

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月21日(水)16時53分32秒
返信・引用 編集済
  > No.7853[元記事へ]

>件のM27氏はいまだに某氏に言っています
 なんと。40年以上、50年近くもおんなじことを言ってますか! それもまたすごいですね(^^;

>田中啓文先生にもお話を伺いました
 いいですねえ。そうしますと次の作品はきっとダジャレ満載ですね※。たのしみ~。合評会でも、段野氏にダジャレを教えたのはダレジャ~!と大盛り上がりになること必定、ひと粒で二度おいしい事態となりそうですね(>おい)(^^ゞ

※そういえばコミカルな作品て、これまで一本もないですよね。


 

Re:段野さんにオススメです

 投稿者:段野のり子  投稿日:2017年 6月21日(水)13時13分10秒
返信・引用
  管理人様
>君には筆量がある
件のM27氏はいまだに某氏に言っています。その某氏の作品量の多さに、まだ、「同人誌」が完成できていないのです。
>視野が広がったんじゃないですか
おっしゃる通りです。田中啓文先生にもお話を伺いました。有り難いことです。折角の機会なのだから、十分に取り入れたいです。
 

Re: 段野さんにオススメです

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月20日(火)21時06分18秒
返信・引用 編集済
  > No.7851[元記事へ]

>確か、地球幼年期の終わり、にそっくりだったそうです
 それが事実なら、むしろ下読み中読みがバカすぎますね。幼年期のパクリを見抜けないなんて。

>「パクリ」にこんな説明(?)が平然と
 こっちはアホですよね。知のレベルを疑っちゃいますね。いや確信しちゃうのか。己を知らず敵も知らず出撃すれば百戦必敗なんですが、それでも目が覚めないのがネトウヨですよね。なぜ目覚めないかと言えば、負けた記憶も改変捏造してしまうからですね(汗)

>「若者ことば」の濫用は慎みなさい
 これはムズカシイところ。星さんはおそらく眉村さんと同意見でしょう。しかし私は最近、一概に悪いとは言えないような気がしてきています。佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』は第二次大戦中ドイツの不良少年たちの話ですが、現在日本の若者が使っている言い回しが(会話だけではなく地の文にも)ばんばん出てきます。いま読んでいる星野智幸作品も、この作品は地の文と会話文が渾然一体となっている面白いナラティブということもあるのですが、「うぜえこのおやじ、チラチラチラチラ胸見てくんじゃねえよ気づかれてないと思ってんだろ鏡見ろよ白目動いてるっつうの」とか「うっ。そうかも」なんて若者言葉が普通に出てきます。このような作家が講師をしている教室だったら、若者言葉の濫用は慎みなさいなんて言うアドバイスは出てこないでしょうね。
 あ、もちろん講師の先生もそれぞれ文学観をもって教えているので、今の教室にいる限りは先生の教えに従わなければ、認められません。その意味では、複数の教室に出入りしていろんなタイプの先生に師事することも必要かも。(そういえば既に実行されていたんでしたね。どうですか。視野が広がったんじゃないですか)

>貴女には筆力があり、何れはほぼ間違いなく文学賞を獲れるでしょう
 おお素晴らしい。嬉しいお言葉ですね。関係ないですが私は大昔、M27大先生に「君は筆量がある。あ、間違わんように。筆力ではない」と言われたことをいまだに「しうねく」覚えています(>おい)(^^ゞ。

※あ、若者の使う意味や使われる状況を理解していることが前提ですよ。半可通に使うのはとんでもないしくじりを招きかねません。
 たとえば「あそこのラーメンは普通にうまいよ」、我々の世代の感覚では「まあまあ」「そこそこ」と言う感じではないかと思います。
 ところが若者が「あそこのラーメンは普通にうまいよ」といえば、それは「お世辞抜きで、本当に(強調)」という意味なんですってねえ。ここ。なんでそうなるの?と。その感覚はちょっと想像がつかないです。故においそれとは使えないです。
 そういう意味では、若者言葉を濫用するのは、たしかにキケンではありますね。眉村さんが濫用を戒められるのはそういう意味じゃないんですかね。よくおっしゃる「舞台は知っている土地を使いなさい(援用しなさい)」と同じですね。

 

Re:段野さんにオススメです

 投稿者:段野のり子  投稿日:2017年 6月20日(火)16時37分53秒
返信・引用 編集済
  管理人様
しつこくてすいません。
「パクリ」はやってはいけません。すぐ、ばれます。
いつの「創元SF賞」だったか、応募作に、面白いものがあったそうです。下読み、中読み(こういう担当者がいるのかは不明)の段階で、「いける」と判断された作品があったそうです。よって、最終選考に回そうとした時、どなたかが、「これ、??の作品と同じ」(確か、地球幼年期の終わり、にそっくりだったそうです)と指摘されました。
作品は、よく出来ていたそうですが、そういう理由なら、当然外されてしまいました(眉村さん情報による)。
しかしですね、「パクリ」にこんな説明(?)が平然とあったことに、驚いてしまいました。使うのをやめておきましょう。
あと、「若者ことば」の濫用は慎みなさい、と指摘されました。例「チラ見」なんだそうです。結構、見たり、使ったりとかしませんか(しない。ごめんなさい)。
で、まあ、かなり改変をしなければなりません。何事も、勉強です。
そうして、「貴女には筆力があり、何れはほぼ間違いなく文学賞を獲れるでしょう」とのお言葉を頂戴しました。
ほんまかいな、です。
 

Re: 段野さんにオススメです

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月20日(火)13時24分43秒
返信・引用 編集済
  > No.7849[元記事へ]

>パスりたいのですが、平谷さんは、「江戸」そのものの地を舞台にされるので
 いや、内容そのものを真似したら駄目ですよ。それじゃあパクリになってしまいます。
(念のためパクリを検索したら、こんな非道い説明がド頭に出てきてのけぞってしまいました。便乗したとおぼしきこんなのも。これは回答者に訂正されていますね。前者は意図的な捏造で(自分の思いつきを歴史化して箔をつけるという捏造手法なんですけど、李は韓国語発音では「イ」なので、その思いつき自体がそもそも破綻しているのです>恥の上塗り)、後者も分かっていて素知らぬふりでの拡散ねらいです。
 ネトウヨってなんでこうなんでしょうかねえ(ーー;。きっと世の人はみな自分と同レベルと思って疑わないからでしょうね(上記恥の上塗りもそうですが、そのレベルが人間の最低レベルであることを知らない)。井戸の中しか知らないとこうなってしまうんでしょう。
 お話し戻して、内容ではなく(それだと江戸話で自分とは関係ないとなりますが)、構造(形式)を利用させてもらったらいいと思うわけです。構造とは要素(具体的な内容)を取り替えても不変なものですから、江戸である必要はないのです。
 それを進めれば、江戸時代でなくてもいいということになるのですが、時代小説ですから江戸時代であることはデフォルトでそれは動かせません。平谷さんのお仕事系時代小説を一気に連続して読むと、共通の構造が薄っすらと見えてくるはずです。パスったそれに、段野さん独自の内容を乗せれば、商業レベルで通用する最低限の格好は付くんじゃないでしょうか。そこからあと、商売になるかどうかは、段野さんのオリジナリティにかかってきます。どんなユニークな内容を見つけてくるかですねえ。
※構造自体はオリジナリティは介在しません。平谷作品から抽出された構造は、結局のところ普遍的なそれなので、何ら疚しく思う必要もないですよ(^^;

 

Re:段野さんにオススメです

 投稿者:段野のり子  投稿日:2017年 6月20日(火)09時57分20秒
返信・引用
  管理人様
>江戸時代京都商家お仕事小説
まさにそのとおりです。幕末はいけません。書いておられる方多数、作品も多いです。何と言っても、資料が現存していることも多いのです。適当にやっつけると、すぐさま批判の声がとんできます。
眉村さんは、「名残りの雪」を書くためだけに、文献をたくさん購入され、実際に京都のその地を訪ねられたと、いつもおっしゃいます。(それくらい苦労しているんだぞ、ということです)
平谷美樹さんには、いつも感心させられます。よくぞお仕事のお話を考えつかれるなあと思います。パスりたいのですが、平谷さんは、「江戸」そのものの地を舞台にされるので、ちょっとうまくいかないのではないかと、感じます。
 

今村夏子「白いセーター」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月19日(月)21時31分50秒
返信・引用 編集済
   先週あたりからどうも目の調子がよくありません。しょぼしょぼするわ、ときどき霞むわ、今日は収まっていますが土日は瞼の震顫が続いていました。(余談ですが、震顫という言葉はバラードの小説で覚えたのでした。沈んだ世界とか、初期の作品によく出てきていて、それまで見たことも聞いたこともなかった言葉なので、くっきり記憶に刻まれてしまいました)。
 で、いま頃花粉症なんてあるのかな、とか考えていて、気がついた。タブレットの画面の見過ぎが原因ですね。
 ということで、今日は『卑弥呼と日本書紀 第四版』はお休みして、『たべるのがおそい vol.3』から、今村夏子「白いセーター」を読んでました。

 わたしは婚約者の伸樹と同棲している。一週間後のクリスマス・イブは外食しようと約束する。といってもホテルのディナーではない。たまに行くお好み焼き屋だ。わたしは普段は手を出さないトッピングに挑戦しようと思う。いつもは豚玉オンリーなのだ。それからは毎日、どういうトッピングにしようか、ずっとそればかり考えている。
 近所に住む伸樹の姉から電話がかかる。イブの日、公民館でクリスマスパーティがありその手伝いで、夕方まで子供たちを預かってほしいと。外食は夜なので、わたしは引き受けることにするのだったが……
 ここまではまあ、ほんわかと、坦々と、話が進んでいきます。ところが、子供を預かってからが、とんでもない、嵐のような展開になっていくのです!

 本篇の面白さは、ありがちなストーリーが突如遮断されて放り出されてしまうところ。予断的に(タカをくくって)読んでいた読者は、まさに嵐に舞う木の葉のように翻弄されてしまいます。主人公のわたしと共に。
 それを保証するのが一人称で、伸樹も伸樹の姉も姉の子供たちも、その内面は、主人公のわたしには完全に断絶して隔絶して存在している。その存在の孤独。まさに「他者」なんですね。
 ラストの後日譚の部分、伸樹との生活は続いているように見えますが、はっきりとは明示されていません。その部屋にはいまも伸樹がいるのか、多分そうなんでしょうが、読者の私には希薄に感じられて仕方がないのですよねえ。

 

Re: 段野さんにオススメです

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月19日(月)13時14分2秒
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  > No.7846[元記事へ]

>私は隙間産業なので、余計少ないです(澤田ふじ子さんぐらいですか)
 澤田ふじ子さんを読んだことがないのでどういう意味での隙間産業なのかわからないのですが、江戸時代お仕事小説という意味なら、平谷美樹さんというその道の大家がいるではありませんか。これはというところはパスったらいいのでは(^^;※
 しかし考えてみるに、江戸時代お仕事小説って隙間産業なんでしょうか。もはや堂々たる時代小説の一分野のような。
 それとも江戸時代京都小説という意味でしょうか。それならたしかにニッチかも、って時代小説を殆んど読んでないので、単なるイメージですが。あ、幕末ならたくさんありますね(眉村さんの「名残の雪」もそうですよね)。でもそういうのじゃなく、江戸時代京都商家お仕事小説と言う感じですね。それはニッチやなあ(^^ゞ

※ところでパスった、ってわかりますよね。大阪限定のスラングでしょうか。子供の頃よく使っていましたが、大人になってからは聴かないし、自分でも使わなくなりました。後知恵で、パスるはパスティーシュから来ているのではないかと思いつき、一人合点しているのですが、ちょうどいい機会なので検索してみたところ、一個しかヒットしませんでした→こちら
 なめとんか!!
 と思ったら、案の定、ツッコまれていますね(^^ゞ

 

Re:段野さんにオススメです

 投稿者:段野のり子  投稿日:2017年 6月19日(月)09時44分42秒
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  管理人様
ありがとうございます!
実は、別のシリーズは持っていて、写っているのは図書館で読みました(ずるいかも)。
他、「江戸ことば」なんかは、新書なので、会社で読みました。(これもずるいかも)欲しいのは、なかなかないのです。先日も、図書館で調べまくりましたが、少ないですね。「江戸」そのものの本が多いし、また「江戸」を書く人もこれまた多いです。私は隙間産業なので、余計少ないです(澤田ふじ子さんぐらいですか)。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月19日(月)02時36分0秒
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   元ツイート

 

「卑弥呼と日本書紀(第四版 第四章~第六章)」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月18日(日)18時55分22秒
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  > No.7840[元記事へ]

『卑弥呼と日本書紀』(第四版 第四章~第六章)より第六章を読みました。
 卑弥呼の正体は? に入ったは入ったのですが、本章はまだ著者の結論ではなく、それに至るための諸説の整理編でした。
 具体的には、著者は「日本書紀」の記述を重視し、「魏志倭人伝」は参考資料程度の意味しかないとの立場ですから、まず日本書紀の神代から高天原編→天孫降臨編→神武東遷編→大和建国編までが整理確認されます。記紀を読んでいて、どう捉えていいか分かりにくい饒速日の立場が著者の史観から解釈されていて、かなりすっきり納得しました。著者の史観は、まず基層として大国主(出雲但馬系)がある程度(中国から信州へんまで?)統一していた上に饒速日(九州系)が入れ替わり(畿内限定?)、さらにその上に神武(九州系)が入って、以後は神武系統(大和朝廷)によって日本は統一されていくという三階層説のようです。
 昨日の地図でいえば、古代大和湖(大和糊にみえちゃいますね)(^^;の南東岸に(伊勢熊野方面から侵入した)神武が勢力を扶植し、大和湖北東岸(石上神宮)からぐるりと反時計回りに西岸(斑鳩)※、さらに大和川沿いに東大阪の日下(石切)から三島郡(現高槻市)つまり生駒山西側を押さえた饒速日-長脛彦連合と対峙したと想像されますね。
※南西岸はおそらく葛城氏の勢力圏

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月18日(日)18時11分57秒
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 段野さんにオススメです(^^)

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 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月18日(日)01時03分15秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月18日(日)00時45分46秒
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   元記事  

「卑弥呼と日本書紀(第四版)」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月17日(土)21時29分8秒
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  > No.7825[元記事へ]

『卑弥呼と日本書紀』(第四版 第四章~第六章)は第五章まで読みました。私がPDF化したので320頁中150頁まで。400字詰め換算156枚/334枚。
 ここまでは予備知識編。いよいよこの辺から卑弥呼の正体についてオロモルフ先生の名推理が開陳されます。
  古代大和湖
 

 地図はこちらから借用。ただし石上神宮の位置が間違っている(春日大社と勘違い?)ので訂正というかカットしています。

 

山尾悠子「親水性について」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月16日(金)22時45分17秒
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   山尾悠子の新作「親水性について」(『たべるのがおそいvol.3』所収)を読みました。
 いやーよかった。どこともしれぬ海。海上都市かと見紛う歳古りた巨船に姉妹が乗っています。姉のわたしは何度も逃げ出し、そのたびに妹と巨船に引き戻される。逃げた先には必ず男(たち)がいる。海辺の荒野で遺跡を発掘している男。河口で甲殻類とりわけトリオプス(カブトエビ)を養殖している男。川を遡った古い都市の図書館の男。漁港と軍港のある町の旧家の男――。わたしは何度も死に、死ねば屍衣に包まれて墓所の島へ運ばれるが、それでも妹と巨船は迎えに来る。
 荒野の男の仕掛けた爆薬で、荒野に海水が侵入、半年に亘って大洪水が荒野を襲う。遺跡は水底に沈み、水中は甲殻類が大繁殖している。あれはトリオプス? 男は否定。海水なのだからあれはクラゲなのだ。座礁していた巨船が、満月の夜の満潮で、ようやく浮かび上り、外洋へ逃れる。クラゲの海に浮かぶ船だ。
 巨船は無人だが、アーケードには影のような人々が集っている。姉妹はそこで毛皮のストールを買い与えられた記憶。店員に、船倉の小鼠が大した出世と皮肉られる。ストールは確かにある男に買ってもらったはずだが、その一方で、幼いころ船倉の鼠のように暗がりで身を寄せ合って生きていた記憶も。
 その男が久しぶりに戻ってくるということになって……

 という魅力的な物語(ヴィジョン)が、完璧な文体で描写されます。私は4回読み返してしまいました。読めば読むほどに新しい発見があり、文体の魅力はさらに際立っていきます。あと数回は読み返しそう。
 現在のSF界隈で山尾悠子に拮抗しうるのは、ケリー・リンクくらいではないでしょうか。ただし翻訳文でしか読めませんから、初手から文体で水をあけられているわけですが。

 見事な物語と見事な文体。この両者が最高のレベルで互いを支え合う傑作で堪能しました(堪能中)。


 

「日本人はるかな旅(1)」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月15日(木)21時39分53秒
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  > No.7836[元記事へ]

 ひきつづき第二章(の後半)を読む。
 斎藤成也「ルーツを明かすDNAの世界」 著者は遺伝子学者。本稿は2001年当時は先進的な研究だったんだと思います。でもDNAの研究は日進月歩で、本項を要約してもあまり意味がなさそうです。
 木村英明「酷寒のシベリア 人類の移住と拡散」 著者は北東アジア考古学者。本稿は、初期人類がいつごろ、どのようなルートでシベリアに広がっていったかという話。ネアンデルタール人のシベリア進出も跡付けられていて興味深い。
 ブリヤート人のバイカル湖近郊のマリタ遺跡で発掘された女性小像が、ヨーロッパのそれに似ていることから、マリタ文化をヨーロッパ(オーリニャック文化)からのインベーダー(侵入文化)とみなす考えが古くからあるそうです。出アフリカ新人の拡散ルート図には
 
 のような点線で描かれる図がよくあります。このルートはたしかにコーカソイド系の分岐ですよね。また下のように、
 
 点線のないのは、その手前で立ち切れています。これはそのルートがバルハシ湖あたりまでしか遺跡がないということだと思います。 インベーダー説はこの点線の延長線が実在したと考えているんでしょうね。

 加藤博文「シベリア旧石器時代 酷寒の住居と衣服」 著者は北アジア考古学者。酷寒の地に進出した旧石器人はどんな工夫を施した住まいに住み、どんな衣服で寒冷地に適応したかという話ですが、当面の関心とはあまり関係ないので読み飛ばしてしまいました。

 川村善也「マンモスの時代」 著者は古生物学者。寒冷地適応したゾウであるマンモスの、その出現と拡散をシベリアの環境的見地から解説しています。本篇も当面の問題とはあまり関係がないので摘読。

 阿部芳郎「縄文土器の誕生」 日本考古学者。この章も、その後新知見も出ていると思うので、ざっと飛ばし読み。

 第三章「マンモス復活作戦の意味」は、マンモスの破壊されていないゲノムDNAからクローンを作ろうというプロジェクトの紹介。興味ないのでパス。

 ということで、オロモルフ先生に戻ります。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月14日(水)23時44分6秒
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「日本人はるかな旅(1)」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月14日(水)22時28分16秒
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  > No.7832[元記事へ]

 第二章「形づくられる原日本人像」は、<最新学術研究がルーツに迫る>という副題のとおり、学際的にしかなしえない「日本人のルーツ」研究者たちの所論が並んでいます。
 尾本恵一「ルーツ探しの未来」 著者は分子人類学者。本項で埴原和郎の二重構造説を検証しています。
 その前に昨日の書き込みの訂正。埴原は形質人類学者で遺伝子の研究者ではありません。その研究は縄文人の化石骨や他の地域の骨のデータを蓄積し、それをコンピュータで解析するという手法(1980年代、ようやくコンピュータもそれが可能な速度を獲得していたんですね)で、その解析の結果、埴原は列島で縄文人となった旧石器人は南方ルート、氷河期に存在した(オーストラリアやニューギニアその他の島嶼が海退で一つの大陸となっていた)サフールランドからやって来たとしたのでした。(先述のブリヤート人云々は埴原説ではないようです。私の記憶では埴原とブリヤートがセットになっているんですが、ずっと間違って記憶していたもようm(__)m)
 尾本は骨ではなく遺伝子(古典的遺伝マーカー)を使って各地の旧石器人のそれと比較して、日本の旧石器人は北東アジアの集団群に近いとしたんですね。
 現時点からみれば、尾本説が正しいのですが、先にリンクした記事では、核DNAの解析の結果、東行組では(サフールランドにいた)アボリジニの次に分岐したのが縄文人だったとなっていたじゃないですか。系統樹の分岐と地域の隣接を混同するわけじゃなくて、埴原の解析結果は、ひょっとしたらアボリジニと分岐した事実を反映していたのかもしれんなあ、とも思ったのでした。

 多賀谷明「容貌からさぐる日本人の由来」 著者は形質人類学者。著者は日本人の地域差に着目します。いまでこそ社会が流動化してしまいましたが、昭和30年以前は各地域に特有の顔や身体の特徴が認められた。昭和20年代に、地道にそれを計測記録した資料が出来ていました。それをデータ化し(FDもない時代で、パンチカードに打ち込んだとのこと)多変量解析法による分析を行った結果、漠っといえば近畿を中心に同心円状に各地のデータが並んだのです。北海道(アイヌ)と沖縄が似た数値で最遠部に位置する。
 これは北海道から沖縄まで縄文人が分布していた中に、近畿を中心に別の人種が流入したことを現している。そして私が発見したのですが(^^;このプロット図をよく見ますと、近畿の県名がプロットされている場所に、普通に考えれば縄文地域であるはずの神奈川、埼玉、群馬が並んでいます。
 そう! 神奈川、埼玉、群馬は古代に帰化人が多かった地域じゃないですか。つまりこのプロット図は、縄文世界に弥生世界が流入したことを物語っているわけです。ついでにいえば、この近畿圏に多い体型や顔は、中国や朝鮮の測定値に近いとのこと。流入者の源郷がそっちだった可能性がs示唆されますね。
 ところで著者は、調査当時(20世紀末)のモデルの女性のデータも入手していて、モデルのデータは中国北部53.3%、朝鮮半島20.0%、中国南部26.7%で、(ズングリ型の)インドシナ、南太平洋はゼロ。
 それを解釈して、著者はこの容貌に関する画一的な好み(ほっそり手足が長い)は、大陸の先進文化をたずさえてやってきた渡来人へのあこがれが背後にあるのではないかというのですが、そうでしょうか。私は単純に欧米人へのあこがれの反映だと思いますねえ(^^;

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月14日(水)20時55分28秒
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           記事へ

 

Re: 中高生、寄宿生活:(>.<)y-~(@_@;)(*_*;(*_*)

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月14日(水)17時42分8秒
返信・引用 編集済
  > No.7833[元記事へ]

 それは大変。やはり未来のあるべき寄宿学校は男女共学(男女共住?)門限なし、がよさそうですね(^^;

 

中高生、寄宿生活:(>.<)y-~(@_@;)(*_*;(*_*)

 投稿者:トマト  投稿日:2017年 6月14日(水)17時34分11秒
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  中高生の寄宿舎生活っていったらそれはすごいものがあります!!
隣の民家を覗くから始まって夜中舎監の目を盗んで喫煙飲酒、夜中集団で寮を抜け出しては赤ちょうちんで一杯やったり女の子を連れ込んでお酒飲んでわいわい、場合によってはエッチ・・・。
寄宿舎の先生は大変大変。あとは誰か熱を出したらお医者さんに連れて行ってその後看病、インフルなんなかやられたら寮生舎監まかない全員発熱で寝込んじゃって・・・。男子寮のばあい、可愛い男の子が女役にされておフェラさせたりズボンの上から・・・させたり・・・あとは寮の食事で大食い競争で廊下のあちこちに吐いたのがテンコ盛り・・・。
女子寮の場合は恒例のレズビアン、あとは気に食わない女の子に泥棒の濡れ衣着せる小細工(あらかじめ五千円を気に食わない女の子の机の引き出しに入れておいて、そしてなくなったなくなったと騒ぎ立てて家宅捜索・・・あっやっぱりこの人盗んだんだとハメこんで・・・。)
もうすごいものがあります!!なんだかんだで退寮処分で夏休み明けにはかなり人数減っているし、もうそれは・・・。お嬢さん学校のカトリック系F葉でもそれはそれは・・・シスターはヒステリー起こしっぱなし・・・。
 

「日本人はるかな旅(1)」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月13日(火)22時06分56秒
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  > No.7829[元記事へ]

 朝から、に追記に書いたような面白い記事を読んでしまったので、オロモルフ先生はちょっと休んで、『NHKスペシャル 日本人はるかな旅(1)』を読んでいました。第1章「マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」を読みました。
 本書は2001年刊行で、もちろん核ゲノム解読なんてできなかった時代の本です。したがって「北から南から」史観です。ただし扱っているのは、そのうちの北方ルートです。
 縄文人骨のDNA分析の結果、縄文人のDNAは現在バイカル湖あたりにいるブリヤート人とDNAの配列が近いことがわかったとあります。これはつとに1980年代に埴原和郎が発表していた研究成果で、オロモルフ先生も
「最近いちじるしく発展したDNAによる研究にもとづいて、それら多くの種族のなかでも、寒冷化に適応できなかったバイカル湖周辺の人々が約二万年前の氷河期に暖を求めて南下し、いくつかのルートで日本列島にわたって縄文人の主体をなした可能性が高い――という説が唱えられている」
  と紹介しています。
 オロモルフ先生の記述と本書の記述は、同じ事象の記述ながらちょっとニュアンスが違います。
 本書によれば、2万年前の最寒冷期に、シベリアのマンモス等大型動物を育んだ環境が寒冷化で激変し、マンモスの生存可能な環境は南へ下がって、沿海州、サハリン、北海道あたりが最適地となります。マンモスは南下し、それを追って狩猟民も出シベリアし、南下します。こうして日本列島に、細石刃加工技術を持つ狩猟民が入ってきたのでした。
 シベリアのマンモス狩猟民(ブリヤートとは書いてない)が、「寒冷化に適応できなかった」のはそのとおりですが、遺跡の発掘具合からしてむしろシベリアが無人化したという方が正しいようです。
 このシベリア狩猟民が、下の記事にあるアボリジニに次ぐ古いホモ・サピエンスなんでしょう。南回廊を先頭に立って進んでいたアボリジニは、オーストラリア大陸で突き当たり、温暖化で閉じ込められたのに対して、北回廊を先頭で進んでいた(マンモスを追って?)一派は、最寒冷期に南に折れ、日本列島に閉じ込められたということになりそうです。
 もちろん沿海州→満州→朝鮮半島に行った仲間がいたはずですが、日本列島のように閉じ込められなかったことで、混血が進んだ。アボリジニや日本列島の旧石器人はその地理的条件によって、結果的に純粋培養されてしまったわけです。

 この日本列島に閉じ込められた旧石器人は、温暖化でマンモス等の大型動物がいなくなった時、新しい文化を獲得する。平原が温暖化で森林(落葉広葉樹林)となり、栄養満点のどんぐりや椎の実がたわわに実るのですが、これを可食化するためには煮沸してアク抜きしなければなりません。それは土器の発明によって可能となる。
 こうして旧石器人は、その生態型を変え、狩猟採取的な縄文人となっていくんですねえ。

 

Re: 流石カミカゼの国とか

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月13日(火)22時01分15秒
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  > No.7830[元記事へ]

 トマトさん
 強権的家父長も問題ですが、特に日本ではそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、母親による溺愛・過保護と言う名の支配関係が問題なんじゃないでしょうか。
 いずれもイエに閉じ込められるので顕在化しにくいですね。
 私は、自我が発達する中学から、全ての子供は親から離して寄宿学校に入れたらいいのではないかと思います。中学、高校はすべて寄宿学校化しちゃうんです。
 そうすれば父や母の支配から自由になりますよね。
 問題は寄宿学校が権力の手先になってしまう場合で、日本全国で「安倍総理バンザイ、安倍総理ガンバレ」と唱えさせられるようになったらいけません。学校(文科省)の行政府からの独立が保証されるような仕組みが必要で、これもなかなか現実的な話とはならないんですよねえ・・


 

流石カミカゼの国とか

 投稿者:トマト  投稿日:2017年 6月13日(火)16時44分48秒
返信・引用 編集済
  海外では流石カミカゼの国、サムライ魂とかいわれているそうですが、あの事故の飛んでいった車のドライバーさんの名前が生熊さんっていうんですね。それもすごいですが、車がマツダ デミオ スカイアクティブというそうで車の名前もすごいです。さらにバス会社社長さんのお顔が御利羅みたいなんですよ。動物園でお馴染みの…。

つまり生きている熊さんがスカイアクティブしてゴリラが社長を務める会社のバスにのめり込んだ!と、不謹慎な事をいっている人がいました。




一方的に自分の価値観を立場の弱いほうに強要して支配征服した場合、必ず後々まで厄介なことが尾を引きますね・・・。本当に深刻に・・・。未だ日本が韓国や中国にうらまれては何かあるごとに過去を蒸し返されるように・・・。パレスチナはもっとひどいですね・・・。
 ニートや引きこもり、家庭内暴力もすべて立場が強い親が立場が弱い子供に自分の価値観を一方的に押し付けては支配征服した結果です。恋人はお互いの幸福のために愛し合う責任があり、親は子供の幸福のために受け入れる責任があるのですが、親が一方的に価値観を押し付けてきたことで子供が幸福になるチャンスを失ってしまうのです。幸せのチャンスは子供が自分で好きなように生きる希望でつかむもので、一度そのチャンスの扉がと辞されてしまうともうその扉が開かれることは極めて困難になってしまうのです。でも親は子供幸せにする責任があるんです。
でも親が強い立場の間は、たいてい仕事もうまく行っていて天狗になっている時ですが・・・周囲の忠告などを何も聞き入れません。しかし自分の仕事がつまずき始めると同時に海図のない航海をさまようような子供が違法薬物に染めたりして要約気が付くんですよ。
「好きなようにさせる以外なかったんだなぁ・・・っ」
って・・・。
それから先は両者茨の道です。子供に
「私の人生、メチャクチャにして、どうしてくれる、償ってよ。」
といわれることほど辛いことはありません。しかし子供を幸福にするよりも自分の利己主義をお押し通してきた結果なのですから・・・。
・・・恋愛もそうですが、お互いをリスペストしあうことが人付き合いの基本中の基本ですね・・・。
 

補遺

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月12日(月)22時26分30秒
返信・引用 編集済
  > No.7825[元記事へ]

 昨日書き落としたことを備忘的に記しておきます。
 本書のテーマからすれば周辺的なところなんですが、そもそも日本人はどんな人々かということです。引用します。
《縄文時代を切り開いた人たちがどこから来たのかであるが、縄文より前は日本列島は独立しておらず、北と南で大陸とつながっていて、日本海は巨大な湖だったので、北から南から西から、さまざまな種族が日本を往来することが可能だった。
 また北方では、氷上を歩いて渡ることもできたらしい。
 最近いちじるしく発展したDNAによる研究にもとづいて、それら多くの種族のなかでも、寒冷化に適応できなかったバイカル湖周辺の人々が約二万年前の氷河期に暖を求めて南下し、いくつかのルートで日本列島にわたって縄文人の主体をなした可能性が高い――という説が唱えられている。
 しかしはっきりしたことは不明である》


 これはそのとおりだと思います。日本人はその最初期は、高田渡ではないが「北から南から色んな人が、毎日故郷を飛び出して、夜汽車に揺られ(>ないない)はるばると日本列島まできたという」わけです。あ、当時は「日本列島」じゃなくユーラシア大陸東岸の「日本海岸」だったわけですが。
 そして列島化したことで閉じ込められ、そこで流入はストップし、否応なくブレンドされてしまった。これが原日本人で、だから日本語には系統関係にある言語がない。

《日本語はシナ大陸の諸言語とはかなり違っているし、朝鮮語とも同じではない。東南アジアにも同じ言語は見つからない。
 似た側面をもつ言語はあちこちにあるが、直接つながることが証明された言語はない。
 もし、圧倒的に高い文化の集団が到来して、それまでの住民を駆逐したとしたら、日本語がその集団の出発地の言語になっていた筈であり、出発地自体についての記憶が――神話や神社の伝承などに――鮮明に伝えられている筈であるが、そういうことはまったく見られないのだ。
 ときおり、特定の地域に日本語の起源をもとめる説が発表されることがあるが、学界の批判に耐えて長続きしたことはない。
 最近の研究では、日本語の起源はやはり縄文時代にまでさかのぼるらしい》


 というわけですね。しかし、

《日本民族起源論は昔からあり、延々として議論が続けられているが、さいきんの考古学的研究によれば、どうやら、縄文から弥生にかけて徐々に形成されていったもので、特定のある時期――たとえば弥生初期――に大陸から高い文化をもつ多くの移民がきて、それまで日本列島に住んでいた縄文人たちを駆逐して古墳文化を築いた――といった事態は、あまり考えられないらしい》

 はどうなんでしょう。実は、この章にはアイヌ人のことが全く顧慮されていないのです(当「第一章~第三章」には「アイヌ」「蝦夷」という単語はゼロです)。
 有力な説では、アイヌ人こそ縄文人の直系の子孫なんだそうです。縄文文化は北海道にも広がっていた。しかも縄文文化は、きわめて均一性が高い(地域差が小さい)。そして本州以南で縄文文化が弥生文化に変わっても、北海道では縄文文化が維持されました(稲作に不向きな土地柄だったからでしょう)。そして続縄文→擦文文化→アイヌ文化へと連続的に移っていく。つまり本州の日本人よりも、より縄文人の形質を残しているのがアイヌ人といえる。
 ところが日本語とアイヌ語はぜんぜん違うらしい。単語は共通するのがある。それは隣接関係から当然なんです。たとえば戦後の日本語にカタカナ言葉が増えたのと一緒(最近ではディスるなんて新語が生まれました)。
 縄文時代から連綿と北海道に住み、他民族と混血していないことがはっきりしている(オホーツク人がしばらくいましたが、数世紀で撤退します)アイヌ人の言葉は、これすなわち縄文語(或いはそれから進化した言語)と言って過言ではないと思います。
 本州以南の日本語は、その意味ではアイヌ語と系統関係があってしかるべきはずなんです。
 ところがオロモルフ先生も書いているように、日本語には系統関係にある言語はない。アイヌ語とも系統関係は認められない。
 アイヌが縄文語であるのはかなり確実である。
 とすれば、日本語は縄文人の喋っていた言葉ではなかった、ということになるはずです。

 以下は私の解決案です(妄想とも言う)(^^;

《たとえば弥生初期――に大陸から高い文化をもつ多くの移民がきて、それまで日本列島に住んでいた縄文人たちを駆逐して古墳文化を築いた――といった事態は、あまり考えられないらしい》
「駆逐して」は考えられませんけど、(たとえば)2~4世紀は(稲作をもたらした人々の)加羅語、5~7世紀には(帰化人の)百済語がまざって、どこにも存在しなかった新しい言語日本語が生まれたのではないでしょうか。
 オロモルフ先生の論考からは脱落している「アイヌ人(語)」という項目を加えるならば、このような結論になるんじゃないかと愚考しているんです。

追記。最近、福島県で出土した縄文人の核ゲノムが解読されて、「現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%程度であることが明らか」になった」(1)そうです。いろんなサイトを勘案しても、20%以下であることは確かなようです(2)、(3)など)。縄文人がそのまま弥生人→現代人に(外的要素なく)変化していったわけではなさそうです。

※さらに(2)によれば、最初の日本人はブレンドでできたのではなく、アボリジニの次に分岐した人々だった。アボリジニ同様海進で隔てられたことで純粋性が保たれた。となっていて、いや面白いですねえ。

 

Re: 中学同窓会

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月12日(月)22時20分32秒
返信・引用 編集済
  > No.7827[元記事へ]

>日本中は東名で起きた飛ぶ車がバスに突っ込んだ事故で持ちきりですね
 あの映像は衝撃的でしたね。私は思うのですが、間違いなく日本の映画はあの映像を利用しますね。もちろんCGにするときのモデルとしてですけど、今後数年、似たような角度で飛んでくるシーンのある映画がたくさん作られるんでしょう。
 そればかりか、ひょっとしたらあれをサメに変えた国産シャークネード映画が現れるかも。それを考えない映画人はいないんじゃないでしょうか。私が映画製作に関わる者だったら絶対提案しますね(^^;

 家父長絶対主義というのはいまだに残存しているのですね。しかし問題は、それと共依存関係になっちゃうことなんでしょうね。さっさと見限って出ていくか、逆に追放してしまえばいいんですよね。でも非保護者である子供は難しいですね。共依存者が家父長を強大化させる逆説もありますよね。そうなると父親に対峙する母親の自立が重要ですよね。あと近隣の助力。それには近隣と繋がってなければなりません。
   クリックで拡大↓
 

Re: 中学同窓会

 投稿者:トマト  投稿日:2017年 6月12日(月)21時25分12秒
返信・引用
  > No.7824[元記事へ]

日本中は東名で起きた飛ぶ車がバスに突っ込んだ事故で持ちきりですね・・・。車って飛行機みたいに飛ぶんですね。知らなかった・・・。中学のときの同級生がネクラなんだけど東大に入ったんですが、東大出てからニートになり、家庭内暴力に励んでいました。父親を本気で殴るんです。人生償えって・・・。このままではとんでもない事件になる・・・として同級生はアパートに住んで、母親がつきっきりだったそうです。 同級生の父親は高校教諭でしたが、「好きなようにさせる以外名無かったんだなぁ・・・。」と後悔しながら死んでいったそうです。はたして東大に入ることで充実した人生を送れるの、それ以前に東大にいったのは本当に本人の意思だったのか・・・。親の犯した取り返しのつかない大きな罪だとしか言いようが無いですね・・・。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月12日(月)01時23分45秒
返信・引用
   元ツイート

 

「卑弥呼と日本書紀(第四版)」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月11日(日)22時19分5秒
返信・引用
   昨日の電車読みは、『ナツェラットの男』のつもりでしたが、四六判ハードカバーの本がいかにも嵩張って感じられて、出発する直前になって急遽変更。石原博士の『卑弥呼と日本書紀』(第四版 第一章~第三章)をタブレットにダウンロードして(正確には縦書きに変更してPDF化したのを)それを読むことにしました。
 原稿用紙に換算して250枚分で、昨日の往路(帰路は寝ていた)と今日一日で読了。
 「内容はかなり是正されているので実質は改版」(保存頁掲載についての説明)と書かれており、私は第一版を紙の本でもっていて、再読になるのですが、紙本を出してきてチェックしたところ、このあたりはほぼ初版どおりのようです(ただ感想的な文章が付加されているかもしれません)。
 著者は言うまでもなく右翼的史観の持ち主で記紀、就中書紀重視派ですが、神武天皇が紀元前660年(考古学的には縄文末期)に即位したという記述を鵜呑みにしてはいません。初期の天皇在位期間が引き伸ばされていることは認めています。また邪馬台国大和説で大和朝廷と連続しているとの説ですが、邪馬台国(の前身)が九州から東遷してきたことは認めています(大和の地場集団がそのまま拡大したのではないということ)。まあ記紀の記述がそうなっているんですかた、当然なのかも。
 とりあえずふつうの史家と違ってSF作家ですから抜群の文章力なので、わかりやすくスラスラ読めます。古代史に興味をもち何を読めばいいかと考えている初心者の方には最適かも。

 ということで、ひきつづき『卑弥呼と日本書紀』(第四版 第四章~第六章)に進みます。
 本書は邪馬台国の所在地を纏向遺跡としているのですが(箸墓の埋葬者が卑弥呼)、後に纏向遺跡から魏志倭人伝どおりの都市遺構が発見され、まさに予言の書と言っても過言ではありません。おそらくそのあたりに最新の知見が付加されているのだと思います。それは本書の後半。


 
 

中学同窓会

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月11日(日)10時59分45秒
返信・引用 編集済
   昨日はホテル阪神で中学の同窓会。なんと11年ぶりだったらしい。前回そんな前だったか。50人ほど集合。11年も経つと名簿がかなり無意味化しているみたいですね。住所不明者のリストを渡されましたが、A4用紙にびっしり(今探したけど落としたらしくなくなっていました)。
 同じ小学校の同期はすぐ思い出せるのですが、他の小学校組は、胸につけさせられたネームを見ても、全く記憶がなかったり。その一方で同じ高校へ進んだもの(全部で20人位で8、9名出席していたかな)は一瞬でわかりました。
 その意味で、小高にはさまれて一番馴染みがないのが中学の同級生かも。

 もとより楽しかったのですが、特に年金についていろいろ教えてもらえたのが最大の収穫でした。
 マイクを回して一人ひとり近況を述べるのですが、私が62歳でもらうか65歳でもらうかどうしようかと考えていると発言したところ、どうもそんな簡単な制度ではないみたいですね(2階建てとか3階建とか)。お前なんも知らんのやなわしが教えたるわと一家言持つ人がどんどんやってきて説明してくれて,テーブルがワイワイ盛り上がってしまいました。結論からいえば、62歳からもらうのがベストのようです。まあみんなの一番の関心事ですからねえ。とにかく、可及的速やかに社会保険事務所へ話を聞きに行くことにしましょう。

 二次会もホテルの別の場所で、結局(帰宅時間から逆算しますと)11時過ぎにお開きになったみたい。例によって朦朧と帰還したのでした(ふと目が覚めると乗換駅で、しかしここで慌てて飛び出そうとして、目前でドアがしまったりしたら目も当てられません。そんな素振りも見せず乗り続けました(いや、次の快速停車駅で降りても、5分も待てば乗り損なった各停が到着するのでした)(^^;。
 12時半頃最寄り駅着。PCを開けたみたいですが、履歴を確認したら5分も経たず消していますから、まさにバタンキューだったもよう。しかし今朝はスッキリ目覚めて二日酔いは無し。さすがにホテルの酒は上等だったんでしょうか(>おい)(^^;

 追記。そうそう書き忘れるところでした。先日紹介した(ここ)一夜にして姿をあらわしたJR梅田とヨドバシを繋ぐ橋ですが、写真を見るといかにもちゃちなので、ちょっと早めに出て観察してきました。
 ぱっと見ただけですが、まだ全然未完成でした。橋の入口部分はボードみたいなので遮られて入れません。というか、足場に毛が生えた程度のもの。なんのためのものなのか、よく分かりませんねえ。

 

シニアモード

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月10日(土)15時05分28秒
返信・引用
   決心してケータイ画面をシニア仕様に変更しました。情けなや~


 ということで、今日は中学校の同窓会につき、もう少ししたら出発します。ちょっと早いのですが、梅田をぶらぶらしがてら。

 

「ナツェラットの男」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 9日(金)22時11分57秒
返信・引用 編集済
   この前読んだ古代蝦夷世界を舞台にした山浦玄嗣『ホルケウ英雄伝』が面白かったので、同じ著者の(こっちがデビュー作なんですが)『ナツェラットの男』に着手しようと思っていたのですが、今パラパラ見ていたら、これどうもイスラエルの話みたいです。ちょっとあてがはずれました。どうしようか。
 しかし、ベト・レヘム(ベツレヘム)、シェロー(ソロモン)なんて書かれていますよ。もしかして著者は大瀧啓裕派なのか(>おい)(^^;。

追記。あ、ナザレか。

 

メモリー不足

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 9日(金)21時40分14秒
返信・引用
   ここ数日来、またPCが重くなって、昨日など、この掲示板の書き込みのため、メモ帳を使っていただけなのに、 メモリに空き容量が不足しているので閉じて下さい、という吹き出しが二度も。
 今日調べたら、タスクマネージャーのパフォーマンスのメモリーがずっと天井近くで上下していました。前回はディスク(C:)が100%だった。それで盲滅法で削除していったらなおったのでしたが、今回はメモリー。
 ネットで調べると、ウィンドウズアップデートが完了していない可能性という指摘が複数ありました。見ると、なるほど「更新プログラムをダウンロード中」でした。さらに見ると、なんとダウンロード中のプログラムを、5月半ばから毎日ダウンロードを試みていて、失敗し続けているではないですか※
 これはたぶんダウンロードに気づかなかった私がPCを切ってしまったためだと思います。
 だったら、ただ今ダウンロード中につき切らないで、というアナウンスを出せよ、と。
 7のときはそういうアナウンスがあったと思うのですが、10にしてから出なくなっています(少なくとも私のPCでは)。
 それはともかく、私が気がついた段階で、ダウンロードは87%でした。とにかくダウンロードを終わらせようと、ネットも切って様子を見ていたのですが、全然進みません。2時間弱でようやく95%あたりまでになりましたが、仕事に出かける時間になってしまいました。
 仕方がないので、PCをつけっぱなしにして出発。帰宅したら、あな嬉しやダウンロード完了していました。
 PCも快調。よかった(^^)
 でも、1か月近く失敗していたということは、前回もこれが原因だったのかも。でも前回はメモリは通常並みで、ディスク(C:)がきつかったんですよね。同じ原因なんでしょうか。

 

『異境』の宇宙SF

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 8日(木)23時42分27秒
返信・引用 編集済
  > No.7817[元記事へ]

 『異境』は、事実上3部構成になっています。第一部が、これまでに読んだ「スペース・マン」「廃虚」「市2220年」「異境」の4篇。すべて宇宙SFです。
 第2部は一転して時代SF。デビュー以来、専ら宇宙小説を発表していた著者が、新たに始めた新基軸で、「雑司が谷めくらまし」「餌鳥夜草紙」「多聞寺討伐」「追う」の4篇。
 そして第3部は再び宇宙SF。「エトルリア2411年」「訣別」「クロスコンドリナ2」「錆びた雨」。
 ただし最後の「錆びた雨」は宇宙SFではなく、ジャンルとしては眉村さんが扱いそうな社会SFです。産業のオートメーション化が進んだ近未来、人海戦術的な人手は必要なくなって、新卒は極端な就職難。そんななか、主人公は担任の教師から大手の会社に推薦できると言われる。ただし枠は1名のみで、もう一人の生徒と二人で話し合ってどちらかに決めろと丸投げされるのです。主人公は家庭の事情でどうしても就職できなければ、家族が路頭に迷う。しかしそれはもうひとりの生徒も同様。話し合いで埒が明かず、では決闘しようとなるのですが……。なんかこのでんでんそもそも時代にこそふさわしい、暗鬱な話でした。
 残り3篇は従来の宇宙SFながら、第1部のそれよりは楽しめなかった。その理由は、反近代小説的なスタイルのせいではもちろんありません。それについては、実はさらに理解が深まりました。
 「エトルリア2411年」で、小惑星に着陸するシーン、「《スカラブ301》の巨体の着陸にはまったくさしつかえのない強固な火星ユーフラテス地溝帯第八紀珪素マグネシウム塩岩よりなる殆んど平坦な地表だった」(236p)
 ところが次の頁。着陸して地表に降りたった主人公たちは「斜面を降りはじめると、それは思ったより遠かった。風化して細粒となった珪素マグネシウム塩岩の砂はとめどなく崩れ、ともすれば二人の体を巻きこんでなだれのように流れ去ろうとした」(237p)
 原稿用紙で1枚先で、塩岩の性質が180度違っています。うっかりミスではありえない。著者はわかってそう描写しているのです。
 どういうことか。おそらく著者の頭のなかに絵柄が浮かんでいて、二人が降り立った地表は蟻地獄のような砂状でなければならなかったのです。というか珪素マグネシウム塩岩が着陸に適した硬地という方がおかしいわけです。この二つの描写の矛盾を著者は分かっていながらあえてそのまま通している。
 つまり近代小説では設定のリアリティがあってその上に物語が語られるのですが、著者の筆法は、物語の進展に、その都度設定を合わせていくというものなのです。著者の「美学」がまずあって、その「絵」に合うよう、自在に設定を変化させる。いわば近代小説の真逆を行くスタイルといえるのではないでしょうか。第一回で「見得」を並べていく手法と書きましたが、それは上記のスタイルからの必然の帰結だったんですね。
 閑話休題。
 ですからその手法ゆえに楽しめなかったのではありません。
 このような手法は、主観的といえるもので、作品自体が主観的な描写であれば意外に納得して読める。「スペース・マン」はまさに最初から最後まで主人公の物語なんですね。したがって小説はハードボイルドになります。
 ところが、主人公が狂言回し的に機能する小説は、より客観的なストーリー構成になるので、著者の主観的反リアリズムな筆法と齟齬をきたすんではないでしょうか。第3部の3篇の主人公は第一部にくらべると、ややその傾向が感じられました。と言っても、それは私だけの感覚なのかもしれないのですが、ともあれそれが、第3部に少し慊いものを感じさせたような気がします。
 ということで光瀬龍『異境』(HSFS、71)から宇宙SFのみ再読しました。

追記。このような反近代小説的志向性は、そもそもの初めから著者にはあったわけですが、それがどんどん先鋭化してきたのと、時代SFの執筆開始には相関性があるのですね。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 8日(木)17時22分40秒
返信・引用
   

           元記事


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 8日(木)00時32分16秒
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   元ツイート

 

『異境』より

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 7日(水)20時46分24秒
返信・引用 編集済
  > No.7811[元記事へ]

 『異境』より、「廃墟」「市(シティ)2220年」「異境」を読みました。
 いやーよかった。しかし同時に、初読時にこれを虚心坦懐に読ませなかったひっかかりも、たしかに見出すことが出来ました。
 例として「市(シティ)2220年」を取り上げます。
 主人公たち「宇宙功労者」――つまり障害を負い宇宙で活動できなくなったスペース・マンたち――が、部分的なサイボーグ手術を受けて、東キャナル市に集められ、その庇護のもと、市民が嫌がる清掃業務に従事している(もちろん市民権はありません)。一種の賤民として設定されています。リーダーのトーゴは、いまは雌伏期間で、そのうち必ず市民権を持てる時代が来る。それまでは我慢しろ、と仲間に言うのですが、現場作業に従事する宇宙功労者にすれば、トーゴは市に迎合する犬としか思えません。トーゴは誠実ですが、エリートらしく一種論理が勝つ性格で、仲間たちの「気持ち」に共感的に寄り添う点で欠けるところがあった。
 折から地球で第二次統合戦争が勃発、その余波が火星にも及び、二派に分かれて内戦状態となる。
 サイボーグ仲間の過激派が、その機に乗じて宇宙船を奪って逃亡しようと提案する。行くあてもないのにその言葉に乗せられ、我も我もと宇宙船に向かって走り出し――(どうやら)全員射殺される。それをやめさせようとして仲間に瀕死の重症を負わされたトーゴと、それを助け起こした主人公ツバイだけが残った。
「ツバイ、お前は行かないのか」「行くよ、お前を埋めてからな」。そして、自分がこの東キャナル市を離れることができるのはいつのことだろうか、と、思うのでした。
 まさに光瀬節全開の宇宙小説。でも、いま読むとバラードの内宇宙小説を髣髴とさせられるんですよね。なぜかといえば、まるで夢の出来事のようにリアリティがない。通路に座っていて、いつの間にか眠ってしまい、目を覚ますと、広場で市民たちが重要な集会を開いていたり(こんなシーン、バラードにもありそうでしょ?)、サイボーグたちの行動も、(過酷な宇宙空間を生存してきたんだから知力判断力に優れたものたちのはずなのに)あまりにもいきあたりばったりなんですね。近代小説は、そこをリアリティをもって描くことで近代小説なんですが、結局著者は、そういう手法は選ばず、いわば「見得」を並べていくという手法を選んだといえるのではないか。こういった作品を近代小説しか知らない読者が読むと、非常に単調に感じられるんですね。
 同様の引っ掛かりは「廃墟」にも「異境」にも見出されます。
 まだ小説の、読みの修行中の当時の私には、この手法が著者によって自覚的に選ばれたものとは理解できず、悪い言い方をすれば「手抜き」と感じたんだろうと、今は思えるんですねえ。もちろん今は、それが意図的な手法でありこだわりであり、こちらも感性が拡大されていて、面白いと感じますし、引っかかることはありません。ああこれに引っかかっていたんだなあと、当時の記憶を甦らせて、懐かしく(苦く)思い返すばかりなのです。



 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 6日(火)21時17分56秒
返信・引用
   元記事

 

Re: 4コマ漫画

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 6日(火)20時50分34秒
返信・引用
  > No.7814[元記事へ]

 結局、各種アンケート就中大新聞の統計においてどれだけ支持率が低下するか、だと思うんですよね。支持率下落が50%前後のところでとどまるなら、これまでのようなぬらりくらり戦術で逃げ切れると思っているんじゃないですか。やっぱり20%を切らないと尻に火がつかないんじゃないでしょうか。
 で、支持率は劇的に落ちるのか。
 マスコミ(とりわけテレビ)の報道姿勢ですよね。
 あと心配なのが、この政権は事実を軽視し捏造を屁とも思わないですから、アンケートの結果に介入して、統計を操作してくる可能性はきわめて高いと思っています。
 例えばこの記事。東日本大震災 避難者10万人下回る 6年2カ月で復興庁
 統計のマジックですね。
「自主避難者の住宅無償提供が3月末で打ち切られ、避難先の民間賃貸住宅を退去した人などが数字上、避難者数に計上されなくなったことが要因だ」
 避難者の存在形態はまさに刻々と流動しているのに、それに目をつぶり、統計の集計範囲を固定することで、実体値からかけ離れた数字を「捏造」しているのです。
 同じことを(コントロールしやすい)大新聞のアンケートに仕掛けてくるのは間違いない(たとえば今現在でも、電話アンケートにおいて、不支持の返事をした電話は聞かなかったことにする(切ってしまう)ということが行われているという噂があります)。そこはしっかり監視してほしいですねえ。

 

Re: 4コマ漫画

 投稿者:トマト  投稿日:2017年 6月 6日(火)19時58分47秒
返信・引用
  週末知人宅で不幸がありました。
ということで突然スケジュールに割り込まれてしまいました。

・・・出来れば払いたくない、しかし払わなかったりあるいはケチったりすると後々まで風評被害に苦しむのが香典です。
そして葬儀の度に語り継がれるのが
「香典出さずに口は出す」
「香典出さずにただで飲み食い、平然と香典未納のまま香典返しを持ち帰る」
のあの伝説の小学校教諭です。
この教諭は香典未納のまま斎場で参列者を礼整列させては「道徳の授業」を始めたものだからそれは唖然とされたものでしたね・・・。

ところで『欠け学園10位学部』がらみですが、私は当初は政権中枢は前川さんに罪を擦り付けてなんとか無事クリアできるのでは・・・という見立てをしていたのですが、どうも最近様子が異なってきました。推測ですが、文科省省内で混乱が生じ、省内で濡れ衣を着せられる対象による反乱が勃発してしいては政権側ではなく前川氏側につく勢力が現れそうな気配です。つまり前川氏についていたほうが今後の自分の保身にプラスに働く・・・という状況ができつつあるのかもしれません。こうなれば政権はやむなく『欠け学園』を尻尾きりにして乗り切る以外ないでしょう。というのも北朝鮮情勢などで緊迫しているときに国益を考えれば政権交代による混乱は避けなければならないからです。つまりもう前川氏に濡れ衣を着せて尻尾きりにするような情勢ではなくなってしまっているのです。しかしこの原因といえば安陪心臓さんの公私混同ですから・・・。 
 

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